マルコによる福音書7章24~30節 2024年7月28日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
さて、今朝の説教題は、「主イエスを説得する信仰」としました。主イエスは神様の独り子です。ヨハネによる福音書によれば、天地創造の御業にも参与された子なる神様です。そんな神様が説得されるというのは、何か変ではないか。永遠の昔から完全にすべてを知り、予定しておられる神様が説得され、御心を変えるなどということがあるのか。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、神様の御心というのは、そんな薄っぺらなものではないのです。神様の救いに与った私たちは、神様が永遠の御計画の中で私を救ってくださった、そう信じております。それは、私たちに信仰が与えられ救われたことだけではありません。結婚にしても、子が与えられることにしても、この両親の元に自分が命を与えられたということも、皆、神様の永遠の御計画の中で与えられたものと受け取り、神様に感謝し、神様をほめたたえるのです。
しかし、その逆に、あの人は救われないことになっているとは誰も言えないし、それは神様だけが知っておられることです。この神様の領域に、私たちは入り込んではならないのです。ですから、私たちは、この人があの人が救われることを願い、神様に祈ります。また、そのためにできるだけのことをいたします。そしてそのことを神様は喜んで受け取ってくださるし、その祈りに応えてくださるのです。それが、「神様が喜んで説得される」ということです。
今朝与えられております御言葉において、主イエスはガリラヤからティルスの地方に行かれました。このティルスという町は、地中海に面した所にあります。大変古い町で、フェニキア人が建てた町です。このフェニキア人というのは、アルファベットのもとになる文字を使い始めた民族で、貿易を主とした海洋民族です。ティルスも貿易で大変栄えた都市でした。
そこに主イエスが行かれたというのです。もちろん、弟子たちも一緒だったと思います。そこは異邦人の住む地方ですから、ユダヤ人たちはあまり行きたがらなかったと思います。特に、ファリサイ派の人々は、自ら汚れの中に入っていくようなものですから、行きたがらなかったでしょう。
主イエスがこの地方に来たのには、二つの理由が考えられます。一つは、7章において、エルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者たちと律法を巡って決定的な対立をしてしまいましたので、身を隠すためということが考えられます。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」と記されておりますことが、それを暗示しているように思われます。もう一つは、6章30節以下の所で、弟子たちと共に休もうとされたのですが、それができないままでしたので、今度こそ、弟子たちも主イエスも休もうとされた、そう考えることもできるかと思います。いずれにせよ、主イエスはここでは人目につきたくなかった。じっとしていたかったのです。
ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女性が、主イエスのことを聞きつけ、救いを求めに来たのです。この女性は、シリア・フェニキアの生まれで、ギリシャ人でした。つまり、ユダヤ人から見れば異邦人です。彼女は、主イエスの所に来ると、主イエスの足もとにひれ伏して、自分の娘をいやして欲しい、汚れた霊を娘から追い出して欲しいと願い求めました。この女性は、今までも多くの汚れた霊を追い出してこられた主イエスだから、きっと自分の娘の悪霊も追い出してもらえるに違いない、そう思ったでしょうし、そうして欲しいと心から願い求めました。私たちも、主イエスならきっとそうしてくださるに違いない、そう思うでしょう。
ところが、この時主イエスは全く意外な言葉を口にされたのです。27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」一読しただけでは、ここで主イエスが何をお語りなったのか分かりにくいかもしれませんが、ここで「子供たち」と言われているのはユダヤ人のことであり、「子犬」と言われているのは異邦人のことを指しています。特にこの場合、幼い娘でしたので、子犬と言われたのでしょう。「パン」というのは救いのこと、この場合は、汚れた霊を追い出すといういやしの業を指しています。ここで、ギリシャ人、異邦人を「犬」にたとえるのは何とも酷いではないか、人種差別も甚だしい、主イエスともあろうお方が何と愛のない言い方をされるのか、そう感じる人もいると思います。確かに、ユダヤ人たちは当時、ギリシャ人や異邦人を犬と呼んで蔑視していたのです。主イエスも他のユダヤ人と同じなのか、そう思う人もいるかもしれません。確かに、そのように読むこともできるでしょう。しかし、ここで決定的に重大なことは、主イエスがこの女性の願いを退けているということです。理由ははっきりしています。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」ということです。つまりまず最初に、神の民であるユダヤ人が救われなければならない。今はその時だ。まだ、異邦人が救われる時は来ていない。そう言われたのです。
まさに、ここで主イエスが言われていることは、神様の救いの御計画です。救われる者の順序です。主イエスは、「まずユダヤ人だ」と言われて、異邦人であるこの女性の願いを退けたのです。確かに、神様の救いに与るには順番があります。主イエスが十字架にお架かりになり復活されて、すぐに主イエスの福音は日本に来たわけではないのです。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは16世紀のことでした。その後、鎖国があり、キリシタンの弾圧があり、再びキリストの福音が日本に伝えられたのは19世紀でした。そして、千葉の地に福音が伝えられたのは1870年台でした。何と長い時間がかかったことでしょう。この世界の人々が一斉にキリストの福音に聞き、悔い改めて救われるのではないということは、必ずそこに後先ということが起きるということです。そうやって次々に起きることが、神様の救い歴史、救済史です。どうして、何の理由で、このような順番があるのか、私たちには分かりません。それは、どうして私が先に救いに与り、あの人この人がまだ救いに与っていないのか分からないのと同じでしょう。はっきりしていることは、私たちの方が、まだ救いに与っていないあの人この人よりも立派であったとか、宗教的であったとか、信仰的に熱心であったとか、よい人であったというような理由ではないということです。
教会では、まだ主イエスを信じていない人、救いに与っていない人を、「未信者」と言います。この言い方は、未だ信者になっていないという意味ですから、私たちは知らないけれども、後で信者になるであろう、なるかもしれない、そういうことを暗に示しているわけです。この言い方は、とてもよいと私は思っています。非信者ではないのです。私たちは、たまたま神様の御心の中で、その人たちより先に救いに与っただけなのです。そして、そのような人たちに私たちは囲まれているわけです。家族の中でも、自分だけがキリスト者であるという人も少なくないでしょう。そういう中で、私たちはどうするのか、その人たちをどう理解し、その人たちのために何をするのかということです。
この女性は、主イエスにこれほどはっきりと「今は駄目。まだ時が来ていない。」そう断られたにもかかわらず、少しもひるむことなく、退くことなく、主イエスにこう迫ったのです。28節「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」何という言葉でしょう。この女性は、「子犬とは失礼な。何という言い方か。こんな人に娘のことを頼むのではなかった。」そんなふうに腹を立てたりしなかったのです。それどころか、「はい、私の娘は子犬です。しかし、子犬でも、子供が落としたパン屑を食べることはできるでしょう。」そう主イエスに迫ったのです。この女性は諦めなかったのです。そして、この女性の有り様を主イエスは喜ばれたのです。断られてもなお、娘のために救いを求めるこの女性の姿を、主イエスは喜んで受け入れられたのです。そして、29節「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言って、この女性の娘をいやされたのです。
創世記18章16節以下には、アブラハムが、神様が滅ぼそうとされるソドムの町の人々のために、必死に執り成しをしているやりとりが記されています。ソドムの町に50人の正しい人がいれば、その人たちのためにソドムの町を赦してくださいと願い、それが聞かれると、45人、40人、30人、20人、10人とその数を減らしていき、何とかソドムを助けようとしたアブラハムでした。結局この時、ソドムの町には10人の正しい人もいなかったので、ソドムの町は滅ぼされてしまったのですけれど、神様はアブラハムの、ソドムの町のための執り成しを受け入れてくださいました。この時の神様のお姿と、シリア・フェニキアの女性の、我が娘のための怯まぬ執り成しを受け入れられる主イエスのお姿は、全く重なっています。ここには、愛する者のために必死に執り成し救いを求める者を、決して退けようとはしない神様の姿があるのです。
このことを知った私たちはどうするのか。それはもう言うまでもないほどに、はっきりしているでしょう。アブラハムのように、この女性のように、まだ救いに与っていない人のために執り成すのです。その人の救いを求め、祈り願うのです。この女性のように、断られても断られても、願い求め祈るのです。救ってくださる方は主イエスしかいないのですし、滅びるのを黙って見ているわけにはいかないのです。その人を愛しているからです。神様を説得するほどの思いを持って、祈ればよいのです。主イエス御自身、マタイによる福音書18章19節で「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束されています。マタイによる福音書7章7~8節では「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と約束してくださっています。この主イエスの約束を信じて、執り成しの祈りをしていくこと。それが、先に救われた私たちに求められていることであり、神様、イエス様は、それを喜んで受け取ってくださるのです。愛するが故に、私たちの覚えるあの人この人のために、信じて祈ってまいりましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたの御計画を私たちは人間の知恵で測ることはできません。しかしあなたは人格的なお方であり、私たちの祈りの言葉に耳を傾けてくださいます。あの人この人の救いのために必死に祈る私たちの言葉を、あなたは受け入れ願いを叶えてくださる方です。どうか、そのことをいつも忘れずに、執り成しの祈りを捧げさせてください。命の危険を感じるような猛暑日が続きます。どうか、兄弟姉妹の健康をお守りください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悲しみや悩みの中にある兄弟姉妹を、お支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン