ヨナ書2章1~2節 2024年2月18日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
ヨナはアッシリアの都ニネベの人々に悔い改めをさせるために、神によって遣わされますが、まったく反対方向のタルシシュ行きの船に乗り込みます。しかしヨナの乗った船はそのことが原因で大嵐に遭い、難破しそうになります。ヨナは自分に原因があることを認めて、潔く自分を嵐の海へと投げ込んでもらいました。
海に投げ込まれたヨナはその後どうなったのか、それが2章以下において展開されます。ヨナのこれまでの行動は、下へ下へと向かう下降の道でした。彼は神の命令から逃れるために港町ヤッファに下って行きました。さらに船に乗り込む行動も、乗り込むという言葉が、下るという意味の言葉です。続いて船の中では船底に下って、眠りに落ち入りました。そして今度は海の中に投げ込まれることによって、恐怖と死の世界へと彼は下って行きました。下ることの極限をヨナは体験しました。神から遠のくことは、死に向かって下って行くことであるということを、私たちは示されました。神が命であられるならば、神から逃れることは命とは反対の、死の世界へと望みなく下って行くことにほかならないのです。
そのようにして遂にヨナは、海の荒波の中に投げ込まれたのです。ところが事態は思いがけない展開をいたします。ヨナは放り込まれた海の中で、主なる神が備えて下さった巨大な魚に呑み込まれ、その魚の腹の中で、三日三晩を過ごすことになるのです。ヨナは死を免れました。
ヨナが死の瀬戸際まで追いやられた時の苦しみと恐怖、そのような中で神によって奇跡的に助け出された大いなる救いの恵みと憐れみ。そのことを思い起こしてヨナは、2章1~10節において感謝と神賛美の祈りを捧げています。苦しみと恐怖と危機の中で、何がヨナに起こったのかを、私たちはこの祈りから知ることができるのです。
2章1節を見てみますと、こう記されています。「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」。ヨナが海に投げ込まれた後、嵐の海が静まり、その後に神は初めから予定されていたかのように、魚をヨナのために備えられた、そういう感じがする記述がなされています。もちろん救いの業の主体は神であられますから、最初からこの出来事は予定されていたということもあり得るでしょう。しかし3節以下のヨナの祈りを読みます時に、「魚の腹の中での」祈り以外にも、神の業を引き出すためにヨナの祈りが「海の中で」ささげられたことが明らかにされます。彼は海の中に投げ込まれて初めて、祈る者として神の前に自らを表していることが分かるのです。
2節に、「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげた」と記されています。これは明らかに、魚の腹の中でささげた祈りです。その祈りの内容が3節~10節まで記されていますが、3節で彼はこう語っています。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」。過去のこととして、この3節の言葉が語られていることに、私たちは注目したいと思うのです。
わたしが叫ぶとか助けを求めるという言葉は、神への祈りを表している言葉です。ヨナは今は魚の腹の中で感謝の祈りをささげているのですが、その前にすでに荒波の中で、海に投げ込まれて死にそうになった時に初めて、神に向かって叫び、助けを求めて神の名を呼んだのです。ヨナはやっと祈る者となりました。
苦難の中で、死の世界へ落ち込んでしまいそうになった時に、ヨナは自分を助け得る方は、自分がその前から逃げようとしているあの神以外にいないことに心底気づかされて、神に祈りをささげました。そして、それに神は応えてくださったと、3節でヨナは語っています。ヨナの叫ぶ声に、神は耳を傾けてくださいました。その結果が、巨大な魚をもってヨナを助けるという神の救いの業として差し出されたのです。
荒れる海に投げ出され、自分の力では自分を助け得ない状況に陥って、初めてヨナは心から神に祈り、神に助けを求めました。その祈りに応えて神は魚を備え、その魚にヨナを呑み込ませることによって、彼を死から救い出してくださったのです。そういった意味で、巨大な魚はヨナを救うために、神が初めから用意されたものであると同時に、ヨナの祈りに応えてふさわしい時に神が備えてくださったものであることが分かります。死の間際まで追い込まれた者が、神以外に助け得る御方はいないことを知って、神に助けを求める時、神はそれに応えてくださる御方であるということが、私たちに示されています。
ヨナは、神の憐れみの中で新しく造り変えられるために、再び主なる神の御手によってしっかりと捕えられました。魚の腹の中は、救いの場であると同時に、彼の再生の場になっています。祈りが真剣にささげられる時、その人は変えられていきます。祈りを聞きとどけられる神が、その人を変えてくださるからです。そういった意味で、祈りは人を変革する力を持っていると言ってもよいでしょう。
イエス・キリストは、ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたこの出来事を、ご自分が墓の中に葬られることとの関連で、次のように語っておられます。マタイによる福音書12章40節です。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」
これは、イエス・キリストが死んで葬られることを意味しています。三日三晩ヨナが魚の腹の中にいたように、イエス・キリストも三日間大地の底に沈まれます。しかし、それが終わりでなくて、葬られて三日目に、キリストはよみがえりの新しい命を持って、墓から出て行かれました。それと同じように、ヨナも古い自分が造り変えられて、魚の腹の中からやがて吐き出されることになります。新しいものが生まれるために、これほどの苦しみと恐怖を味わうことが、ヨナには必要だったのです。
彼が神の命令にもっと従順であれば、これほどの苦しみや恐怖を味わう必要はなかったであろうと、多くの人々は考えます。しかし、また人は真に追いつめられなければ自分自身と向き合い、神と向き合うこともないということも、私たち人間の現実なのです。
宗教改革者ルターが、このヨナについて次のように述べています。「ヨナが、いち早く祈っていたら、もっと早く救われただろう。ヨナは彼をまねて、このようなことをしないように(もっと早く祈るように)われわれに命じ、そして教えてくれている。……しかし、人が神に向かって叫び求め、訴えることは、どれほど難しいことであろうか。泣き叫び、嘆きおののき、疑うことはするけれども、祈りは出て来ない。」
もっと早くヨナが祈っていたら、これほどの苦しみを味わうことはなかったであろうという教訓を私たちはここから読み取ってよい、ルターはそう語ります。しかし、実際の私たちは、叫んだり、わめいたり、疑ったりするけれども、心から神に祈ることはなかなかしない者である、こう語るルターの言葉を私たちはじっくりと噛みしめたいと思います。
2節でヨナは、「自分の神、主に祈りをささげた」と記されています。神はイスラエルの民全体の神であられると同時に、また「わたしの神」、「自分の神」と言うことを許される一人一人の神でもあられます。使徒パウロが、神が「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を私たちの心に送ってくださったと、ガラテヤの信徒への手紙で語っているとおりに、私たちは神を全く自分一人の父でもあるかのように、神に向かって祈りをささげてよいのです。群れ全体の神、信仰者全体の神であられるイエス・キリストの父なる神は、わたし一人の神でもあってくださいます。そのような強い結び付きを、私たちは神との間に与えられているのです。
さて、今日は全部を扱うことはいたしませんが、3節から10節まで続く祈りですが、旧約の詩編にもよく似た内容のものがあり、よく似た形のものが多く見られます。そのことについて少し触れておきましょう。
詩編には、信仰者たちが神に向かって、「わたしの祈りに耳を傾けてください」と訴える祈りが数多く記されています。「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください」。これは詩編55編2節、3節の言葉です。神よ、わたしから隠れないで、わたしの叫びに耳を傾けてください。旧約の信仰者たちはそのように神に叫び続けました。それに対して主なる神もまた、そのような信仰者に対して、ご自身に呼びかけることを許し、またそれを求めておられます。そのことを示す詩も詩編の中に数多く出てまいります。「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。お前はわたしの栄光を輝かすであろう」。これは詩編50編15節の言葉です。これには救いの約束が伴っています。
わたしに耳を傾けてください。そう叫ぶ私たちに、神はわたしの名を呼べ、わたしは苦難の日にあなたを救うと、約束してくださっています。そして、さらにそのような神の許しの中で神に祈りをささげる者は、実際に神によって救われた恵みの体験をも与えられて、神への感謝の祈りをささげています。そのような詩編も数多く見ることができるのです。
神に祈り求め、神に願う者に、神はそれにふさわしい答えを与えてくださる。そのことを私たちは旧約の詩編をとおして、またイエス・キリストが示してくださった神の憐れみをとおして、知ることができるのではないでしょうか。
神は私たちが失われた者、滅びに陥る者となることを、お喜びになる御方ではありません。それゆえに、叫び求める者を、御手をもって守り、救ってくださる御方です。それが私たちの神であります。ヨナには、巨大な魚を備えて、彼の祈りに応えてくださいました。ヨナには荒海の中で魚が必要でした。私たちに対しては、それぞれに必要な、それぞれに最もふさわしい助けをもって、神は応えてくださる御方であります。神は一人一人の声を聞き分けることがおできになる御方です。それゆえに、神は一人一人に必要な助けを具体的に差し出すことがおできになります。そのことを、私たちは確信することができるのです。苦難の中でこそ、主に叫ぶことに生きる。そのような私たちでありたいと心から願います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。預言者ヨナを通して、私たちが如何に頑なで、あなたに祈ることの少ないものであるかを知らされます。しかしあなたはそのような私たちを顧みてくださり、切羽詰まって祈る私たちの祈りにも答えてくださいます。私たちの信仰は、あなたへの祈りの中で深められ真実なものにされていきます。どうか祈りを通して、あなたの御臨在を生き生きと感じさせてください。今群れの中には病床にある者、高齢の者、試練のさなかにある者がおります。どうか一人一人を、御手をもって支えていてください。戦争や災害のために苦しんでいる人々を顧みてください。この切なるお祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。