マルコによる福音書14章1~9節 2025年8月3日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
聖書は私たちに、全く新しい生き方、美しいあり方を教えます。それは「献げる」という生き方、「献げる」というあり方です。私たちは、どうすれば手に入るか、自分のものにすることができるか、そのことにばかりに関心があり、興味を持ちます。それはお金であったり、富であったり、社会的な地位や名誉であったりします。しかし、それらを手に入れてどんなに自分のものにしても、美しくないのです。一方、自分の持っているものをどう用い、どう使うか、そのあり方によって私たちは美しくなれる。そして、それは「献げる」というあり方なのだと、聖書は教えてくれるのです。教会に来ても、どうすればお金持ちになれるかは教えてくれません。しかし、自分の持っているものをどのように用いれば美しくなれるか、そのことは教えてくれます。それが「献げる」というあり方です。
私たちがこの「献げる」という生き方をする根拠、また最も徹底した献げ方が示されているのが、主イエスの十字架です。十字架は、二千年前の犯罪人に対する刑罰ですから、それ自体が美しいはずはありません。目をそむけたくなるように悲惨で、残酷なものです。しかし、主イエスの十字架は違います。主イエスは、天と地を造られたただ一人の神様の御子でした。全く罪無きお方であり、父なる神様と共に天におられました。しかし、この世界に来られ、人間と同じ姿となり、罪の中に生きる私たちのために、私たちに代わって、神様の裁きをお受けになりました。それが主イエスの十字架です。主イエスは、御自分の命を十字架の上で献げられたのです。この主イエスの身代わりの死によって、私たちは一切の罪の裁きを免れ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことができるようになり、新しい命に生きる者とされました。主イエスは私たちのために、私たちに代わって、御自身の命を献げられたのです。だから、主イエスの十字架は美しいのです。
さて、今朝与えられております御言葉、マルコによる福音書14章は「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」と始まります。この祭りはイスラエルの人々にとって、民族のアイデンティティーを確認する大切な祭りであり、民族意識が最高潮に達する時でもありました。世界中からユダヤ人たちが帰ってきて、この祭りに参加しました。
この時、祭司長たちや律法学者たちは、主イエスを殺そうと考えたのです。どうして、当時のユダヤ教の指導者たちは、主イエスを殺そうとしたのでしょうか。更に2節には「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたとあります。どうして祭りの間はやめておこうと考えたのでしょうか。
それは、主イエスがこれまで様々な奇跡を行い、教えを語ったので、民衆の中では、主イエスこそ旧約の預言者たちが語っていた救い主、メシアではないかという期待が高まっていたからでした。主イエスがメシア=キリストであるとするならば、自分たちが築いてきた当時のユダヤ教における指導的な立場、秩序、それが根底から崩される。そのことを恐れたからです。だから殺そうとしたのです。しかし、民衆の支持がありましたから、民族意識が最高潮に達するこの祭りの時に、そのようなことをすれば暴動になりかねない。だから、祭りの間はやめよう。そう考えたのです。
ここには、自分が手に入れたものを何としても手放したくない人間の姿があります。自分に損害を与える者ならば、殺してでも排除してしまおうとする人間の姿です。これが結局のところ、損か得かで動いてしまう人間の姿なのでしょう。これを美しいと思う人はいないでしょう。しかし、これが損得だけで生きてしまう私たちの姿なのです。
聖書は、この祭司長たちや律法学者たちに対比するように、3節からの出来事を記しています。場所はベタニア。エルサレムから3kmほど東に行った、小さな村です。主イエスはこの村の重い皮膚病の人シモンの家におられました。多分、この重い皮膚病にかかっていたシモンを、主イエスが以前、癒やされたのだろうと思います。それ以来、シモンとその家族は、主イエスに感謝し、主イエスを愛し、交わりを持っていたのだと思います。
その家で、主イエスが食事をしていた時です。この時主イエスは、一人で食事をしていたのではありません。シモンの家の人や主イエスの弟子たちも一緒だったと思います。そこに一人の女性が入ってきました。そして突然、驚くべき行動に出たのです。彼女は自分の持っていたナルドの香油の入った小さな石膏の壺を壊して、その香油を主イエスの頭に注いだのです。部屋は、むせ返るほど香油の香りで一杯になったことでしょう。この香油は大変高価なもので、三百デナリオン以上に売ることができるものでした。三百デナリオンというのは、労働者の一日の賃金が一デナリオンでしたから、一年分の収入に当たる金額です。この行動は、「非常識な」と非難されても仕方の無い、突飛なものでした。実際、その場にいた人たちの何人かは「憤慨した」と、聖書は記しています。
しかし、どうしてこの女性は、こんな突飛な行動をしたのでしょうか。理由は記されていません。はっきりしていることは、主イエスが8節で「この人はできるかぎりのことをした」と言われているように、この女性は有り余る中からこのナルドの香油を主イエスの頭に注いだのではなくて、この高価な香油はこの女性にとって全財産と言ってもよいようなものであったということです。確かに、この女性がどうしてこんなことをしたのか、聖書は何も記していません。ただ言えることは、この女性には、自分の全財産と言ってもよいこのナルドの香油を、主イエスの頭に注がないではいられない何かがあったということ、そしてそれは感謝の思いであり、喜びの思いであり、愛だったのだろうということです。
この女性の行動に対して、その場にいた人の何人かが憤慨して、こう言いました。4~5節「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」彼女のことを厳しくとがめたのです。この人たちの言っていることは正論です。「もったいないことを。もっと有効に使うことができるのに」ということです。
三百デナリオン以上で売って、貧しい人に施す。これはよいことであるに違いありません。皆さんもそう思われるのではないでしょうか。しかし、もしこの香油が一デナリオンの価値しか無いものだったらどうでしょうか。人々はこれほど憤慨したでしょうか。この女性のしたことをとがめている人々は、明らかに、三百デナリオンという金額に心が向いています。しかし、この女性はどうでしょう。彼女は、もしこの香油が一デナリオンの価値しかなくても、それが自分の持っているすべてであるとしたなら、同じことをしただろうと思うのです。彼女は計算していないのです。愛は計算しないものだからです。彼女は主イエスに、自分の持つ一番良いものを献げたかったのです。
主イエスは、この女性をかばうようにして言われました。6~7節です。「するがままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」主イエスは明日、十字架の上で死ぬのです。主イエスはそのことを見つめておられます。貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる。これから、いくらでも貧しい人のために施すことはできるし、そうしたらよい。でも、わたしはもう明日、十字架に架けられるのだ。そう言われたのです。もし、私たちの愛する人が明日死んでしまうと知ったならば、できる限りのことをその人のためにしよう、したい、そう思うのではないでしょうか。
そして、続けてこうも言われました。8節「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」主イエスは明日金曜日に十字架にお架かりになり、午後の3時に息を引き取られることになります。金曜日の日没、午後の6時頃でしょうか、そこから安息日が始まりますので、主イエスは十字架から下ろされると、取るものも取りあえず、墓に葬られたのです。当時の葬り方は、遺体を焼くことなく、そのまま横穴に入れます。遺体は腐敗し、臭いが出ます。ですから、遺体を葬るときには、遺体には香料を塗ることになっていたのです。しかし、主イエスの葬りの時、そのような時間はありませんでした。その意味で、このナルドの香油が、主イエスの葬り、埋葬の準備となったのです。
更にこう言うこともできるでしょう。主イエスは救い主・キリストとして十字架にお架かりになるのです。すべての人の罪を担われる。全く罪無きお方として、十字架に架けられる。主イエスの十字架はその意味で、キリストの即位式であると言われます。このキリストとは、「油注がれた者」という意味のメシアというヘブル語を、全く同じ意味のギリシャ語に置き換えた言い方です。旧約において、油注がれて即位したのは、王様、祭司、そして預言者でした。主イエスは、まことの王、まことの祭司、まことの預言者として十字架にお架かりになりました。その主イエスが、まことの王、祭司、預言者として油を注がれるという事が、このナルドの香油をかけられるという出来事によって成し遂げられたのです。
もちろん、この女性はそんなことは考えてもいなかったでしょう。しかし、主イエスは、この女性のできるかぎりの献げ物を、そのようなものとして喜んでお受け取りくださったということなのです。主イエスは、この女性のしたことを、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。この「良いこと」とは、「美しいこと」とも訳せる言葉です。主イエスは、この女性のできるかぎりの献げ物をする行為を、美しいことと言ってくださった。そして、御自身の埋葬の準備、キリストの油注ぎとして受け取ってくださいました。主イエスはそのように、私たちができるかぎりの献げ物を献げることを、美しいこととして受け取ってくださり、私たちの思いを超えた意味を与えてくださるのです。
この女性のした行為は美しい業として、二千年経っても、この地球の裏側まで伝えられました。この女性はそんなふうになるとは、考えたこともなかったでしょう。私たちは何も、自分のしたことがそのように世界中の人に覚えられることを求めているわけではありません。しかし、この女性のしたことは、誰よりも主イエス御自身、神様御自身が受け容れ、覚えてくださったことでありましょう。そこに、この女性の喜びがあったのだと思います。
私たちは今朝、献げる者として生きるようにと御言葉を受けました。損得を超えて私たちに命を与えてくださった神様に、私たちのために御自身の命を献げてくださった主イエスに、私たちは、自分の持っている力や時間や富を、お献げして歩んでいきたいと思います。私たちの献げる物がどんなに小さなものであっても、それができるかぎりの献げ物であるならば、神様は喜んで受け取ってくださり、美しいと言ってくださり、覚えてくださるのです。そこに、私たちの本当の喜びがあるのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、あなたは御子イエス・キリストを通して、他者のために「捧げる」という行為を示してくださいました。その主イエスに呼応して
一人の女性が自分の財産のすべてであるかぐわしい香油を、惜しみなく主イエスに注ぎました。愛することから始まった「捧げる」行為は、人間の計算や損得を超えていきます。どうか私たちも、主イエスの十字架を仰ぎつつ、主の御後に続く者として生きることができますよう、励まし導いていてください。猛暑の日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹の体調をお守りくださり、この厳しい季節を無事に過ごすことができますよう、支えていてください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン