主のひとみの中の私

ルカによる福音書23章32~43節 2025年4月13日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスがかけられた十字架の上には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男が、彼らユダヤ人の王なのだ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。

 そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、ユダヤ人の民衆たちは、つい数日前までその男が彼らの王となると本気で信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。イスラエルの民が待ち望んできた力ある王です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々はついて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。

 5日ほど前にエルサレムに入城された時もそうでした。エルサレムに向かう道には、こんな賛美の歌声が響いていたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(19:38)。「力ある王がついにエルサレムに来られた!この御方がユダヤ人の王としてローマ人に支配されている我々を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。」人々はそんな期待をもってここまでついて来たのです。

 しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架に磔(はりつけ)にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」と、今日の35節に書かれていました。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。ユダヤ人からすれば、無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。

 はじめからメシアだとは思っていない議員たちは、嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や、民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」― いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もが、力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。

 結局、そこに見るのは、ある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があればついて行くのです。しかし、無力であることが明らかになったら、もういらない。もう必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は、普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。

 しかし、教会は今日に至るまで、十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリント1:22~23)。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない、「十字架につけられたキリスト」を教会が今日まで宣べ伝えてきたのはなぜなのか。―その理由をはっきりと示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで、いったい何が起こっていたのか。その続きを読んでいきましょう。

 十字架につけられたメシアの両側には、他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスを罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」

 彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのは、手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする、大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主(おも)に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから多くの人は、この二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。

 彼らが政治犯であるならば、主イエスを罵った男の言葉は大変よく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも、彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて、苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。そんなことは、あってはならないことだという怒りが湧き上がります。「神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきだろう。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!」

 彼の抱いた思いは、多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で、私たちもしばしば言うのではないでしょうか。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいではないか!その思いは私自身覚えがあります。皆さんも、おそらくそうではないでしょうか。

 しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。

 お前は神をも恐れないのか! そう彼は言いました。彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にしながら、神の御前に身を置いているのです。彼は神への恐れをもって神と向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に、彼は思うのです。わたしは決して正しくなどない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。

 彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマの法律に背くことや、反権力闘争において行ってきた、暴力や殺人のことではありません。彼は「自分のやったこと」と、神の御前において言っているのです。そこでは、他の人は知らないかもしれないけれど、神は知っておられることが問題になるのです。他の人は知らないかもしれないけれど、神だけは知っている心の最も深いところまでを含めた、「自分のやったこと」なのです。ある意味では、神だけが知っている自分の人生のすべて、それこそが「自分のやったこと」です。それが正しく裁かれ、正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然だと思えたのです。

 その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは、全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない? とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」

 彼はそこに、メシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる、神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして、彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。「あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている、私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください」。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 するとそこで主はすぐさま、彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって、今、十字架の上におられる。しかし、メシアは王なのです。王の権能は裁きを行う権能なのです。メシアは最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって、十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する、罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、主イエスと一緒に楽園にいることになるのです。

 彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが、今日も私たちに起こっていることなのです。ボッヘッファーという人は言いました。「人は神を十字架へと追いやる。神はこの世においては無力で弱い、しかし神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである。」これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた、十字架につけられたキリストです。私たちもまた、十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。否、キリストが、私たちの傍らにいてくださるのです。あの赦された罪人と同じところに、私たちもいるのです。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と宣言してくださっているのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。受難週の最初の日に、敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、感謝いたします。御子イエス・キリストは、二人の犯罪人と共に十字架に付けられ、死なれました。それは神様の前に死ぬほかない、罪を重ねてきた私たちを助けるためでありました。御子イエス・キリストは、そのようにして私たちを罪の縄目から解き放ち、永遠にわたって開かれた神の支配の園パラダイスに生きる者としてくださいました。どうか、苦しみのさ中にある時も、地上の死を間近にしている時でさえ、キリストが傍らにいてくださることを、私たちに覚えさせてください。群れの中には、重い病を得ている者、その生涯を終えようとしている者もおります。どうかあなたの全き平安をもって、支え励ましていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。