主に従う真実な道

マルコ福音書8章31節~9章1節   2024年9月22日(日)  主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 先週の箇所で一番弟子のペトロは、主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけに対し、「あなたは、メシアです」と答えました。ペトロは主イエスを「生ける神の子です」と、正しく告白したのです。それが先週の礼拝で私たちが聞いたことでした。

 ところが、今日お読みいただいた8章31節以下の箇所では、立派な告白をして主イエスのお褒めにあずかったペトロが、「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責されているのです。どうしてこのようなことになったのでしょう。

 今日の8章31節に「それから」とあります。「あなたは、メシアです」とペトロに告白されて「それから」ということです。直後のことです。主イエスは次のように弟子たちに教えられたのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」主イエスは、これからご自分がどのような道をたどられるのかを語られました。これは受難予告と言われ、マルコによる福音書には3回出てきます。そしてこの受難予告によって、主イエスはご自分がどのようにして神の子・メシアの使命を果たされるのかを、弟子たちに教えられました。その道は、ユダヤの権力者たちに迫害され、その結果として死を避けることができないものであったのです。

 それを聞いた弟子たちは、主イエスのおっしゃることが理解できませんでした。メシア・神の子である主イエスが殺されてしまうことなど、あり得ないことでした。あってはならないことでした。そのためペトロは、主イエスをわきへお連れして、いさめ始めたというのです。今からメシアとして大事業をなされようとしている主イエスが、少し弱気になっているように思われて、そのような思いを変えていただこうと考えたのかも知れません。

 しかし、そのペトロを主イエスは叱りつけられました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、激烈な言葉を浴びせられたのです。この場面はマタイによる福音書4章1~11節にある、主イエスが悪魔(サタン)から誘惑を受けられた場面を思い起こさせます。この時のペトロは神の救いの業を妨げる者、主イエスを誘惑する者としての役割を演じていました。主イエスはペトロの態度と言葉の中に、サタン自身の働きを感じられたのでしょう。だからこそ、それをきっぱり拒絶するために「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。

 ある注解者は次のように言っています。「こうした神の計画を考えずに、専ら人間的な推測のみでイエスの前に立ってイエスを導こうとする考えは、神の計画の邪魔をする悪魔の計略と同じである。」主イエスのことを慮り、主イエスの考えを変えようと、ペトロは主イエスをいさめました。しかし、それがどれほど人間の善意から出ていることであっても、主イエスの前に立って主イエスを導こうとすることは許されません。私たちの先に立って私たちを導かれるのは主イエスであって、私たちは主イエスの御後に従う者に他なりません。そうであるからこそ、私たちは何が主の御心であるかを、祈りにおいて聞いていかなくてはならないのです。神の思いよりも人間の思いを優先させようとする時、神の救いのご計画を妨げてしまうことになるのです。

 そして、今申しましたことを、主イエスはあらためて確認なさろうとされたのでしょう。34節にあるように主は群衆たちを弟子たちと共に呼び寄せられました。そして、メシア・神の子に従う者が持つべき覚悟について教えられたのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(34~35節)。

 主イエスは、弟子すなわち信仰者というのは、主イエスの御後に従う者であると言われます。そしてそれはまず、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」従うことだと言われるのです。主イエスは、私たちが知っていますように、自分の願いではなく父なる神様の御心に従って、十字架の死という苦い杯を受けられました。人間のどうしようもない罪を贖うために、私たちの負うべき十字架を私たちに代わって背負ってくださいました。その主イエスに従うために私たちがなすべきことは何か? それは、神様の御心に従って、私たち自身も誰かのために十字架を背負うことではないでしょうか。

 それは、自分の配偶者や子どもや親のため、自分の家族のために十字架を負うことかもしれません。自分の身近な友だちや地域の人たちのために十字架を負うことかもしれません。また、志や使命感を与えられて、外国の困難に置かれた人たちのために十字架を負うことかもしれません。私たち信仰者には、これが神様の御心だと示され、あえてその人たちのために十字架を負う決断をすることがあるのではないでしょうか。主イエスはそのことがわたしの後に従うことであり、自分の命を失うのではなく救うことになると、言われるのです。

 35節と36節で「自分の命」という言葉が4回使われていますが、原語では「プシュケー」という言葉です。「生命」という意味もありますが、「魂」とか「自分自身」という意味もある言葉です。「魂」という場合、「永遠の生命を受けることのできる、最も尊い部分」という意味でもあります。私たちは誰かのために十字架を背負うことによって、主イエスと共に十字架で死にます。しかし死んで終わりではありません。主イエスと共に十字架で死んで初めて、主イエスと共に復活の恵みにもあずかることができるのです。

 また、神様の御心に従い誰かのために十字架を背負うことは、「自分自身」を救うことでもあるのです。私たちに生きる目的を与え、人生を生きるに値するものにしてくれるのです。先週15日(日)情熱大陸というテレビの番組で、ケニアのナイロビで活動している小児科医公文和子さんの働きが紹介されていました。実はこの番組は習志野教会の長老さんからお薦めいただいたもので、その長老さんが北海道の札幌北一条教会で教会生活をされていた時、青年会でご一緒だったということでした。公文和子さんは和歌山の熱心なクリスチャンホームで育たれ、北海道大学医学部を卒業された後、小児科医となられました。イギリスで熱帯地医療を学ばれ、医療の十分行き届いていない国々で働かれましたが、厳しい現実に対して、自分の無力さに打ちのめされることもありました。そして様々な経験をされたあと、ケニアのナイロビで障害を持った子どもたちと出会い、その子たちの笑顔を見て、この地で子どもたちと共に生きていこうと決心します。そしてナイロビの地に障害を持った子どもたちの施設「シロアムの園」を設立したのでした。今、50人を超える子どもたちが、このシロアムの園に通い、リハビリと療育を受けています。ケニアでは今でも障害を持った人への偏見が強く、そんな子どもが生まれたのは、親が悪いことをしたからだとか、呪われているからだと思われています。ある子どものお母さんは、「障害がうつるから側に来ないでと言われた」体験を、涙ながらに語っていました。そうした社会にあって、シロアムの園は公文和子先生のやさしい笑顔とあたたかい人柄とのお陰もあって、障害を持つ子どもたちと親たちが安心して通える場所となっています。日本に毎夏帰ってきて講演と募金活動をしながら、シロアムの園の切り盛りをする公文和子先生の苦労は、いかばかりかと思います。しかし、先生自身は障害を持った子どもたちの笑顔こそが、自分を支え生かしてくれている。自分は子どもたちから笑顔をはじめ、多くのものを受け取っていることを伝えたいと言われるのです。

 私たちは、公文和子先生のような志の高い行動はできないかもしれません。しかし、自分の身近な人たち、少し関わりのできた人たちのために自分を捧げることによって、「自分自身」が支えられ、励まされる経験をするのではないでしょうか。そのような誰かのために十字架を背負う私たちを、主イエスは「わたしの後に続く者だ」と喜んでくださるのです。

 

 さて、主イエスはさらに36節以下で、次のように言われています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(36~38節)。ここには、主イエスの御後に従う弟子たちが、何に究極の価値を置いて生きるかが教えられています。マタイによる福音書4章8節以下にありますように、神に敵対するサタンは、主イエスに「この世の国々とその繁栄ぶり」を見せました。「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑しました。サタンはこの世界を支配する力を持っていることが分かります。しかし、このサタンに身をかがめて全世界を手に入れたとしても、それを自分の思い通りにすることはできません。全世界をどうかしようと思っても、それは自分の思いではなく、サタンの思いに操られているからです。現代の社会においても、暴力や強権を用いて自分の国を思うがまま支配しようとする独裁君主がいます。しかし、それは自分の思い通りにしているように見えても、それはすべてサタンの思いに操られているのです。しかしそれは有限です。人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来られる時までしか、存在することはできません。サタンの支配はいつまでも存続することはません。人の子が再臨する時に完全に打ち砕かれ、滅ぼされてしまうのです。

 それに対して主イエスの御後に従う信仰者は、主イエスが与えてくださる永遠の命を約束されています。この主にある永遠の命は、信仰者が地上の死を迎えても失われることはありません。しかしサタンに身をかがめて自分の命を失った者には、永遠の滅びが待ち受けているのです。なぜなら第一の死の後には永遠の命がありますが、第二の死の後には永遠の滅びだけがあるからであります。

 

 主イエスは今日の最後の9章1節で、このように言われました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」この主イエスの言葉には、いくつかの解釈が提案されてきました。これは主イエスの再臨のことを語っていると言う人もおります。そうすると弟子たちが生きている間に、主イエスが再臨されると預言されたことになります。しかし、他の解釈をする人もいます。ある人たちは「神の力があふれて現れる」時を、次週学ぶ主イエスが山上で栄光の姿に変わった時だと言います。また別の人は、その時は主イエスが十字架の死から復活された時だと言います。そしてまた、天から聖霊が下されたペンテコステの時だと考える人もいるのです。いずれが正しいかは分かりません。むしろその一つ一つが、「神の国が力にあふれて現れた」出来事だと言えるのではないかと思います。

悩み多き時代です。不条理がこの世には充ち満ちているように感じます。しかし信仰者は、神の国が力にあふれて現れる究極の時として再臨の時を待ち望んでいます。そして、それだけではありません。主イエスは「神の国が力にあふれて現れる」出来事を、私たちの生きる時代にももたらしてくださいます。神の御支配は、私たちの時代にも確かに現れ出るのです。そのことを信じて、希望を抱きつつ信仰者としての歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と対面で、オンラインで共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書の御言葉を示され、主イエスの御後に従う者としての道を示されました。主は私たち一人ひとりの罪のために十字架を背負ってくださいました。私たちは自分のために十字架を背負っていく必要はありません。どうか私たちを、主イエスがそうであったように、誰かのために十字架を背負う者として導き支えてください。立秋からだいぶ経っても、猛暑日の続く日々です。どうか、兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。