主に先立って道を備える者

ルカによる福音書 1章57~66節   2023年12月17日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

アドベント第三の主の日を迎えております。ルカによる福音書は、主イエスの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生を記しております。それは、主イエスの誕生が、偶然、たまたま、その時に起きたことではなくて、神様の御計画の中で起きたことである。そして旧約聖書において預言という形で示されていた神様の御心の成就であるということを示しているわけです。マラキ書3章1節にも「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」と預言されていたように、救い主が来られる前には、主の道を備える者、神様からの使者が遣わされることになっていたからです。救い主が来られる前に、救い主に先立つ者、道を備える者が来ることが預言されており、それが洗礼者ヨハネであると告げているわけです。

神の民は長い間、救い主が来られるのを待っていました。アッシリアに、バビロンに、ペルシャに、ローマに、神の民は800年にわたって世界帝国と言われる巨大な国家に支配され続けました。その中で彼らは待ち続けたのです。そして、遂に救い主が来られたのです。それが主イエス・キリストでした。神様はアブラハムとの契約を忘れず、神の民に救い主を与えてくださったのです。そのことを指し示す者として、洗礼者ヨハネが主イエスの誕生に先駆けて生まれたのです。その意味では、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とを結びつける者としての位置が与えられていると言ってよいかと思います。マタイによる福音書は、その冒頭において長い主イエスの系図を掲げることによって、旧約と新約とのつながりを示しました。それに対して、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生を記すことによって、旧約とのつながりを示したということなのではないかと思うのです。

今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが誕生した場面が記されておりますけれど、その前に何があったのかをまず少し振り返っておきましょう。1章5~25節に記されていることです。

 洗礼者ヨハネの父ザカリアは祭司でありました。彼が、神殿で香をたく務めをしていた時、天使ガブリエルが現れて、こう告げました。13~17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」この天使ガブリエルの言葉の中に、生まれて来る子が救い主のために道を備える者であることが示されていました。16~17節です。

しかしこの時、ザカリアは天使ガブリエルの言葉を受け入れることができませんでした。ザカリアも妻のエリサベトも既に年をとっていたからです。100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが与えられた出来事をザカリアは知っていました。しかし、そのようなことが我が身に起きるとは信じられなかったのです。だから彼は、天使にこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」これは「しるし」を求めたということでありましょう。それに対して天使ガブリエルは、20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と告げ、ザカリアはその時から口が利けなくなってしまったのです。そして、それから妻のエリサベトは本当に身ごもったのです。

そして今日の聖書です。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。」(57節)というのは、今申しましたようなことがあって、そして10ヶ月が過ぎて男の子が生まれたということです。当然、ザカリアはこの間、口が利けないままでした。この10ヶ月間の沈黙、それはザカリアにとってどういう時間だったのでしょうか。ザカリアは天使ガブリエルによって口が利けなくなってしまったわけですけれど、そのことを恨んで過ごす10ヶ月ということではなかったでしょう。そうではなくて、天使ガブリエルが言った言葉、先程お読みした1章の13~17節の言葉の意味を考え、思い巡らしていたのではないかと思います。そしてまた、アブラハムにイサクが与えられた時のような驚くべき奇跡が起きて自分たちにも子が与えられることの意味、神様がそのことによって示そうとされている御心、それらについて思い巡らす日々ではなかったかと思うのです。

 10ヶ月というのは短い時間ではありません。しかし、本当に神様の御心を知り、そのことによって自分が変わる、神様の御業に仕え切る者となる、そのためには三日や一週間ではダメだったのではないかと思うのです。人が変わるには、時間が必要なのです。そして、口が利けなくなるというのは、日常的に忘れることができないことです。声を発し、話そうとする度に、思い起こさせられることです。それは少しも観念的なことではなく、我が身に刻まれた神様の御業でありました。この神様の御業と共に10ヶ月間、ザカリアは生活しなければならなかったのです。このことは、とても大切なことだったと思います。ザカリアはそのような時を過ごし、そして遂に「月が満ち」たのです。

子どもが誕生するというのは、いつの時代でも、どこの国でも、喜ばしいこと、嬉しいことです。洗礼者ヨハネが生まれた時もそうでした。近所の人々や親類が皆喜んだのです。これは自然なことです。しかし、ここには神様の御業に対しての驚きと畏れがありません。私たちを根底から支え、生かす、力ある喜び。それは神様の御業に対する驚きと畏れというものと不可分です。自然な喜びというのは、悲しいことがあればそれによって取って代わられてしまうような喜びなのです。しかしここで、神様がザカリアと妻エリサベトに与えられた喜びは、自然な喜びを超えた、神様への驚きと畏れに満ちた喜びでありました。

 生まれた子に割礼を施し名前を付ける。この命名式というものが、当時のユダヤにおいては大変重要でした。近所の人や親類が集まってなされる、子どものお披露目のような意味を持ったものでした。その時に、生まれた子に父の名を取ってザカリアと名付けようとしたのです。ザカリアの家は祭司の家でした。親類の多くも祭司だったはずです。親類の中の偉い人がそう言ったのかもしれません。しかし、その時母のエリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。女性がこのような公の時に口を挟むことが許されるような時代ではありませんでしたから、人々は驚いたことでしょう。この嫁はなんということを言い出すのか。そんな空気が流れたことでしょう。そこで人々は父のザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねました。するとザカリアは、口が利けませんので字を書く石板を出させ、「この子の名はヨハネ」と書いたのです。

 ザカリアは10ヶ月の間、口が利けませんでしたけれど、どうして自分の口が利けなくなったのか、神殿で天使ガブリエルに会った時のことを、妻のエリサベトに伝えていたに違いないと思います。口は利けないのですから筆談によったのでしょう。ザカリアはエリサベトに事の成り行きを話したに違いないのです。そして、ザカリアもエリサベトも10ヶ月の間に、神様の御心をきちんと受け取り、それに応える者へと変えられていったのだと思います。

 何気ないことでありますけれど、この時ザカリアとエリサベトが同じように神様の御心を受け入れたということが、とても大切なことだと思います。ザカリアだけ、エリサベトだけ、ではなかったのです。ここには信仰において一つとされた夫婦がいるのです。これはまことに幸いなことです。

 ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた時、それはザカリアが単に天使ガブリエルの言った通りにしただけではありません。それ以上に、ガブリエルが告げたことをすべて、受け入れて信じたということを意味しています。示された神様の御心に従って歩んでいくということを意味していたのです。神様に対しての信仰の告白が、こういう形で成されたということなのです。

 64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。10ヶ月の長い沈黙の後にザカリアの口から出て来たのは、神様への賛美だったのです。ここに、神様の御臨在に触れた者、生ける神様と出会った者の姿があります。私たちの姿がここにあると言ってもよい。私たちは、ザカリアと同じように神様を賛美する者として、神様の救いに与ったのですから。

 ザカリアが神様を賛美する姿を見て、人々は恐れを感じたと65節にあります。どうして人々は恐れたのでしょう。それは、ザカリアの口が利けなくなったことから始まり、老いたエリサベトが身ごもったこと、子が生まれたこと、そして急にザカリアの口が開いて主を賛美したこと、その一連の出来事が神様の御業であることを知らされたからです。彼らは今まで、普通に赤ちゃんの誕生を喜んでいたのです。しかし、この普通だと思っていた出来事が普通ではない、神様の御業であるということを知って、恐れたのです。

 私たちはどうでしょうか。普通であると思っていることの中に、神様の御業を見る眼差しを持っているでしょうか。神様の御業は私たちの日常の中に溢れています。しかし、多くの場合、私たちはその前を普通のこととして通り過ぎているのではないかと思うのです。私たちの眼差しが神様の御業に開かれ、この唇が神様を誉めたたえるために開かれていくことを願うものです。

ザカリアは10ヶ月の間、天使ガブリエルの言葉を思い巡らし、まことの救い主によって救いの成就が成されるということ、そのために我が子ヨハネが用いられること、そのような神様の救いの御計画の中で、自分たち夫婦が選ばれたということを知るに至ったのでしょう。もちろん、それを悟らせたのは聖霊なる神様です。ザカリアの10ヶ月間も、口が利けないという状況は辛い日々であったに違いありません。しかし、その時を神様の時として過ごした者は、神様を賛美する者へと変えられていくのです。私たちもまた、そのような者として召されているのです。来週はクリスマスの主日礼拝です。色々と忙しい日々が続きます。その日々を私たちは、忙しさを嘆くのではなく、主が私に与えてくださった救いの御業を思い巡らす時としていきたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。アドベントの第三主日を、敬愛する兄弟姉妹と共に守り、あなたを褒め称えることができましたことを感謝いたします。神様の救いの御業は、あなたを待ち望み、あなたを信じる民によって担われていきます。今日の祭司ザカリアと妻のエリサベトもそうでした。それは今日の信仰者である私たちも同じです。私たちも自らの生き方と奉仕の業によって、あなたの救いの御業を持ち運んでいきます。そのことに気づかされるとき、私たちは畏れに打たれると同時に、あなたに用いられている喜びを与えられます。どうかそのような喜びで、一人ひとりを満たしていてください。 主をこの世界にお迎えした時、この世界は軍事力を背景にした「ローマの平和」の中にありました。そのような冷酷な偽りの平和が、現代においても声高に叫ばれ、人々を支配しています。しかし、神様はそれとは対極にある神の平和の基として、御子をこの世界に誕生させてくださいました。どうか、私たち一人ひとりを、世界を和解させ命を生かす、あたたかさを湛えた神の平和に仕える者としてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。