マルコによる福音書8章1~21節 2024年8月25日 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられました御言葉を聞いて、「おやっ」と思われた方も多いと思います。今朝与えられております四千人に食べ物を与える記事は、6章30節以下の五千人に食べ物を与えた記事と、ほとんど同じ出来事が記されています。人数が四千人なのか五千人なのか、パンの数が七つなのか五つなのか、残ったパン屑が七籠なのか十二籠なのか、そのような違いはありますけれど、出来事としてはほとんど同じです。どうして同じような出来事が繰り返し記されているのか。そんなことを思われて、「おやっ」と感じられたのではないかと思います。
この同じような二つの出来事が記されていることについて、ある人は、一回の出来事が伝えられているうちに、二つの違った話になったと理解します。だから、ルカとヨハネは五千人の方だけを記したと理解するわけです。しかし、本当にそうなのか。本当は二回あったけれど、同じようなことなのでルカとヨハネは一回だけを記したとも考えられるわけです。ただ、マルコとマタイは二回記しており、それには理由がある、私はそう考えます。では、それはどういう理由かと申しますと、6章にあります五千人の方はユダヤ人たちが養われたのですが、四千人の方は異邦人が養われたという出来事なのです。7章24節で、主イエスはティルスの地方に行かれたと記されています。ここは地中海沿いの異邦人が住む所です。そして、7章31節において、主イエスは「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。この経路は地図を開いてたどってみますと、すべて異邦人の住む所なのです。7章の24節以下、主イエスは異邦人に対して救いの御業をなさいました。そうすると、この四千人に食べ物を与えるという出来事も、異邦人に対してなされた奇跡と理解してよいのだと思います。つまりマルコは、五千人の養いに続いて四千人の養いを記すことによって、主イエスの養いの中に生かされるのはユダヤ人だけではなく、異邦人もまた主イエスの養い、神様の救いに与るのだということを示した。そのように理解することができるのです。
そして主イエスは、この大勢の人々をわずかなパンで養うという出来事を繰り返されることによって、人は神様の驚くべき御力によって養われ、生かされているのだということを、弟子たちの心に深く刻ませようとされたのでしょう。旧約において主の養いによって神の民が生かされた出来事として、私たちはマナの奇跡を思い起こすことができます。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の状態から救い出されて約束の地にたどり着くまで40年の間荒野の旅を続けたわけですが、彼らはその間ずっと天からのマナによって養われ続けたのです。これは毎日のことですから、40年の間それが続いたということは、イスラエルの人々、神の民にとって、決して忘れることのできない出来事でした。そして、自分たちは神様の養いの中で生かされているのだということを知ることになったはずです。これは決定的に大切なことでした。神の民とは、主の養いの中で生かされていることを知る民なのです。主イエスは、このことを弟子たちにもしっかり心に刻ませるために、この不思議な出来事を繰り返されたのでしょう。逆に言えば、それほどまでに、主の養いに生かされているということは身につかない。自分の手で、自分の力で稼いで生きているのだという所から、私たちはなかなか離れられないということなのでしょう。実に、信仰に生きる、神の民として生きるということは、この主の養いというものを本気で受け取るという所に、かかっていると言ってもよいほどなのです。
洗礼を受けるために準備する人に、私は、必ず食前の祈りをするようお勧めしています。家族の中でキリスト者が自分一人だけだと、なかなか食前の祈りをするのは難しいということがあるのかもしれません。そのような人には、婦人の方ならば食事の準備をする前に祈りなさいと言います。食事というのは毎日するものですから、食前の祈りが身につけば、今日は一度も祈らなかったということはなくなるわけです。そして、この食前の祈りにおいては、必ず「神様、あなたが備えてくださったこの食事を感謝します」という一言が入るはずです。これによって、私たちは食事の度毎に、自分は主の養いの中に生かされているということを心に刻むことになります。これが本当に大切なのです。また、主の祈りを祈る者は、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈るわけですが、そうすると、私たちの毎日の食事は、神様がこの祈りに応えて与えてくださったものとして受け取ることになるでしょう。食事の度ごとに、私たちは神様の愛を改めて心に刻み、神様をほめたたえ、感謝するということになるのです。ここに、生き生きとした神様との交わりに生きる生活が形作られていく一歩があるのです。食前の祈りというのは、ほんとに小さな習慣です。しかし、この様な習慣を身につけていくことによって、私たちは神様との生き生きした交わりの中に生きる姿勢が整えられ、身についていくのです。
さて、11節を見ますと、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。以前学んだ7章において、主イエスの弟子の中に食事の前に手を洗わない者がおり、それを巡ってファリサイ派の人々と主イエスは厳しい対立関係に入ってしまいました。ファリサイ派の人々にしてみれば、先祖たちから大切に伝えられてきた生活上の様々な律法を、主イエスが平気で破るというのならば、自分が本当に神様から遣わされた者であるという証拠を見せよということなのです。それが、「天からのしるしを求めた」ということです。
主イエスはこれに対して、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と告げられました。どうして「決してしるしは与えられない」と言われたのでしょう。四千人に食事を与えたり、耳が聞こえず舌の回らない人をいやしたり、主イエスはたくさんのしるしを示されたではありませんか。それなのに「しるしは与えられない」とはどういうことなのでしょう。それは、主イエスを試そうとする人を満足させるためには、決してしるしは与えられないということなのです。ここで主イエスは「今の時代の者たちには」と言われていますが、これは主イエスが生きた二千年前の人たちには、という意味ではありません。そうではなくて、いつの時代にもいる、しるしを求める人たちのことです。何か驚くべき奇跡を起こしてくれたなら信じてもよい、そう思っている人には主イエスは決してしるしを与えないと言われたのです。いつの時代でも、主イエスは生きて働いてくださり、驚くべき業をなしてくださいます。五千人、四千人の人々を養ったような奇跡だって起こされます。しかし、それが起きたら信じようという人には、決してしるしが与えられることはないのです。
主イエスは再び舟に乗り、ガリラヤ湖を渡りました。この時、弟子たちは舟の上でパンを一つしか持ち合わせておりませんでした。主イエスの一行の食事を用意するのは、担当が決まっていたのかもしれません。その人がたまたま忘れてしまったのでしょう。その時、主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。これを弟子たちは何と聞いたかというと、自分たちがパンを持っていないからだ、主イエスはパンをちゃんと用意しなかった自分たちを叱っているのだと思ってしまったのです。そしてその責任をめぐって、議論し始める始末だったのです。
こんな議論をしている弟子たちに、主イエスは17~18節「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と告げられたのです。主イエスはパンが一つしかないことを叱ったりしません。忘れることなど、よくあることなのですから。しかし、主イエスがなさった奇跡が何を意味しているのか分からない、悟らない。それ故、主イエスが誰であるのか分からない。そして、主イエスと共にいるということがどういうことなのか分からない。そのような弟子たちに「いい加減、悟りなさい」と告げられたのです。主イエスが誰であり、主イエスと共にいるということがどういうことであるのか分かるならば、それさえ分かれば、パンを一つしか持ってこなかったことについて心配して、心を乱すこともないではないか。そう言われたのです。
そして、主イエスは五千人と四千人に食事を与えた時のことを弟子たちに思い起こさせます。弟子たちはその時のことをちゃんと覚えていました。五つのパンで五千人を養った時、パン屑は十二の籠いっぱいになりました。七つのパンで四千人を養った時は、パン屑が七つの籠いっぱいになりました。弟子たちはそのことを覚えておりました。しかし、それが何を意味しているのかが分からなかったのです。それが主の養いを意味している。それ故、主イエスが共にいてくださるのならば食事の心配などいらない。大丈夫。弟子たちは、その安心の中に生きるということができなかったのです。自分たちは神様の御子と共にいる。神様が自分たちを養ってくださる。だから大丈夫。そう思えなかったのです。五千人の食事、四千人の食事、この出来事をきちんと受け止めていれば、主イエスが共におられるのだから大丈夫、その安心の中に生きることができるはずだということなのです。私たちに与えられているのも、この安心に他なりません。
では、ここで主イエスが言われたファリサイ派の人々のパン種、ヘロデのパン種とは、何を意味しているのでしょうか。ファリサイ派のパン種とは、細かな律法をすべて守って救われようとする律法主義。自分は正しくて救われるけれど、律法を守らない人、異邦人は救われないとする考え方、信仰のあり方です。このファリサイ派のパン種は、いつでもキリスト教会の中に入り込んできます。自分のことは棚に上げて、あの人はどうだ、この人はどうだと非難するのです。このファリサイ派のパン種と無縁な教会などありません。本当に気をつけなければなりません。また、ヘロデのパン種とは、洗礼者ヨハネを殺したヘロデを指しているのでしょう。自分の面目を守るために神様に遣わされた預言者を殺す、そのような人々の思いの中で、主イエスも十字架につけられることになっていくのです。これに気をつけよと言われたのです。
このファリサイ派のパン種にしてもヘロデのパン種にしても、パン種ですからほんの少し入ってくるだけで全体に影響を与えて、その色に染めていってしまう、そういう力を持ったものなのです。主イエスは、これによくよく気をつけなさいと言われたのです。キリスト教会は、その時代、その国の考え方や常識というものと無縁ではありません。いつでもその影響を受けているのです。しかし、どんな時代であっても、神様・主イエスが主なのであって、私たちは主イエスに従う者なのです。自分と主イエスの考えが同じなら従うというのではない。奇跡を見たら信じるのでもない。天地を造られた神様が与えてくださる養いの中に既に生かされているのだから、安心して主イエスと共に歩んでいけばよい。大切なのは、自分の面目を守ることでも、自分の正しさを守ることでも、自分の才覚を信じて生きることでもない。すでに主の養いの中に生かされている事実を感謝と共に受け入れる、そしてその主を心からほめたたえて、主の与えられる平安の中を生きることなのです。そのことを覚えて、ご一緒に歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを崇め礼拝することができましたことを、感謝いたします。あなたは私たち信じる者たちを、あなたの与えてくださっている恵みによって養っていてくださいます。どうか、いつもそのことを覚えさせてください。そして、あなたの豊かな恵みに養われている安心の中で、私たちも与えられている物を共に分かち合っていくことができますよう、導いてください。今週も台風の接近が予想されています。どうか、一人ひとりをそれぞれの場所で守り支えていてください。このひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。