ヨハネによる福音書12章20節~26節 2025年8月10日(日)主日礼拝説教
長老 髙谷史朗
先ほど司式者に読んでいただいた、ヨハネによる福音書12章の20節、21節に、「祭りのとき、エルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシャ人がきており、イエスの弟子フィリポに「イエスにお目にかかりたいのです、と頼んだ。」とあります。これに対して、主イエスは23節で、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられました。これは、主イエスが極めて重大な決意表明をされたものである、と言えましょう。
なぜかと申しますと・・・・
主イエスはヨハネの福音書において、これまで周りの人々や弟子たちに「わたしの時はまだきていない」と幾度となく述べられていたからです。具体的には、2章4節;カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われた時や、7章6節と8節;仮庵の祭りでエルサレムに向かおうとされた時、「わたしの時はまだ来ていない」と述べられています。また、ヨハネ福音書の記者自身も、7章30節と8章20節;主イエスが捕らえられそうになった時、「それはイエスの時がまだ来ていなかったからである。」と記しています。
では、なぜ、主イエスは今、正に、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられたのでしょうか?
これは、20節からの「ギリシャ人の何人か」が主イエスに面会を申し込んだということが重要な意味を持つと考えられます。ユダヤ人から見ると当時のギリシャ人とは異邦人の代表であり、従って外国人全体をさしていると考えられるからです。外国人の代表であるギリシャ人が主イエスの教えを学ぶために、はるばるやってきたということは、いよいよユダヤ人の枠を超えて、主イエスの教えが、世界宣教に向かってスタートする「新しい時」の始まりを告げる決意表明であったと言えるのではないでしょうか?
「人の子が栄光を受けるときがきた。」という言葉を耳にしたユダヤ人たちは、ついに積年の恨みであるローマを打ち破り、主イエスが新しいイスラエル王国を建設する栄光の時を一瞬夢見たかもしれません。しかし、続いて、「はっきりと言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、死ねば多くの実を結ぶ」という、主イエス自らの十字架を暗示する言葉を聴いたときに、彼らはどのような驚きと落胆をもってその言葉を受け止めたことでしょうか?なぜなら、それは、主イエスがご自身の死の意味を一粒の麦にたとえ、自らの命を捧げることによってやがて多くの人たちに救いと命をもたらすという約束を意味しているからです。
「一粒の麦」とは、あくまで主イエスご自身のことなのですが、本日、私たちはこれを単なる抽象的な理想像として捉えるのではなく、この言葉によって、私たちが「自分としてどう生きていくか」ということを問われているものとして受け止めながら、話を進めて参りたいと思います。
まず、はじめに、「一粒の麦」の言葉に応答する形で、一人の日本人の物語をご紹介したいと思います。
皆様、三浦綾子さんの書かれた塩狩峠という小説をお読みになったことがありますでしょうか?実は、この小説の冒頭に、この一粒の麦の言葉が象徴的に使われているのですが、内容は、当時、旭川六条教会の会員であった長野政雄氏(小説では、主人公永野信夫となっています)にまつわる実話を元にして描かれた長編小説です。
そのクライマックスの場面で、寒い冬のある日、長野政雄さんは、塩狩峠を運行する列車の事故に遭遇して、車中の人々を守るために自らの命を投げうって列車の下敷きになり、そのおかげで列車が止まり多くの人々の命が救われたという事件が描かれております。
もう少し、端的に事故の状況と彼の人となりをご理解いただくために、塩狩峠の事故現場付近に設置された記念碑に刻まれている文章を原文のままお読みしたいと思います。お聴きください。
「明治42年2月28日、夜、塩狩峠に於いて、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。時に、乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。『「苦楽生死均しく感謝、余は感謝してすべてを神に捧ぐ』 はその1節なり。30歳なりき。」とあります。この彼の死は、決して無駄な死ではありませんでした。彼の行動を通して、多くの命が守られ、多くの人々が彼の信仰に心を打たれました。そして、その証(あかし)は、今日に至るまで多くの人の心を動かし、語り継がれています。皆様、この長野さんがとった行動は、正しく「地に落ちて死んだ一粒の麦」そのものと言えるのではないでしょうか?
では、私たちにとっての、「一粒の麦」とは何でしょうか?
私たちは日々の生活の中で、これほど大きな自己犠牲を求められることはないかもしれません。が、主イエスは続けてこう語られました。
25節;「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。さて、ここで自分の命を「憎む」とは、いったいどういう意味と解釈すべきでしょうか?
おそらく、「憎む」という言葉は、「愛する」と対立する言葉としてとして使われているものと理解できますが、この「憎む」という言葉の意味するところが、自分自身よく理解できませんでした。
何とかその意味するところを知りたいと思い、文語訳聖書や口語体のいろいろな聖書を紐解いてみても、全て「憎む」とありました。また、英文の聖書をみても「hate」(憎む)となっており、疑問は解決できませんでした。が、一つの英文の聖書のみ、「give up」となっているのを発見しました。「give up」とは通常我々がほぼ日本語として使う言葉で、「あきらめる」とか、「降参する」「放棄する」などの意味で使いますが、ダメもとで、何十年か振りに、学生時代に使った、研究社の大英和辞典を紐解いてみたところ、なんと、「give up」の1番の意味として、「引き渡す」、「捧げる」とあったのです。 なので、ここでは、「自分の命を憎む人」は、「自分の命を捧げる人」と解釈したいと思います。
では、私たちにとって「自分の命を捧げる」とは、どういうことと考えるべきでしょうか?
次のことがヒントになると思われます。
皆様よくご存じの、聖路加国際病院の理事長であった、日野原重明さんが「いのちのバトン-97歳のぼくから君たちへ」という子供向けの講演の中で、「命とは何か」を問い、その答えとして、彼は、「命とは、人間が持っている時間のこと」と定義しました。すなわち「いのちは時間であり、いかに時間を使うかで、人生の質が決まる」、また、寿命とは長さではなく重さである、とも述べられています。
時間とは、人間はもちろん、森羅万象すべてに均しく与えられている賜物と言えますが、彼は、「命」を単なる物理的な存在ではなく、その人がその人らしく使える「時間」として捉えることをすすめています。つまり、その人にとっての人生すべての時間が命であり、その時間をどのように使うのか、が重要であるというメッセージなのです。つまり、日野原氏の「命=時間」という考え方は、単に生きることをいうのではなく、人生を豊かに意味深く生きていこうということを示唆していると言えるのではないでしょうか?
本題に戻りたいと思います。
では、主イエスから私たちに与えられた、「命を憎む」或いは「命を捧げる」とはどういうことと考えられるでしょうか?言い換えれば、私たちは日常生活の中でどうすれば「一粒の麦」として、生きることができるのでしょうか?ご一緒に考えてみたいと思います。
もちろん、塩狩峠の長野さんのように、実際に命を差し出すことを強いられる機会はそうそうありませんし、むしろ、決してそういう機会には遭遇しないようにと願いたいものです。
しかし、実際のところ、主イエスが私たちに求めておられる「命を憎む、あるいは捧げる」はもっと身近で、もっと具体的で、私たちの日常の中にあるものと考えてもいいのではないでしょうか?
日野原さんの言葉を参考にしつつ、たとえば、
・誰かのために、自分のもてる時間、エネルギーを惜しまず、差し出すこと。言い換えれば、日々の中で、自分の都合や欲を脇に置いて、自分の時間を使い、誰かのために尽くすことは「自分の命を」憎むことになるのではないでしょうか?
・また、誰かのために祈ること。それは大事な自分の時間を使っているのですから、自分の命を捧げていることにならないでしょうか?さらに発展して、
・人との対話の中で、自分の意見を押し付けるのではなく、相手の思いに耳を傾けること
・人から認められなくても、見えないところで誠実に働き続けること、など、など。
これらは全て、自分の命を「捧げる」という小さな行いの積み重ねと言えないでしょうか?それはまさしく、「一粒の麦」がハラハラと静かに土に落ちていく瞬間なのです。そして、神様は、私たちの一つ一つの小さな行いを見ておられ、それを通して、実を結ばせてくださるのではないでしょうか?
26節では、「私に仕えようとする者は、わたしに従え。父はその人を大切にしてくださる。」とあります。
私たちが、父なる神様の恵みを得て、命を「捧げる」という新しい歩みに生きるときには、主イエスが共におられ、自分が主イエスと共にあることを知ることができるのではないでしょうか?そして、これらの行いを通じて、自分が主イエスとともにあるということを実感できることこそ、私たちの何にも代え難い喜びと言えるのではないでしょうか?
最後に、ヨハネによる福音書15章12~13節の御言葉をお読みして終わりたいと思います。
「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
以上
お祈りいたします。
恵み深き天の父なる神様、
今日も兄弟姉妹と共に礼拝をまもり、ヨハネの福音書12章の「一粒の麦」について学ぶことができましたことを、感謝いたします。神様、「一粒の麦」である、主イエスの十字架と復活により、私たちに命を与え、永遠の命の実を結んでくださいましたことをこころから感謝いたします。
どうか私たちも、自己の殻に閉じこもるのではなく、隣人のために生き、仕える者となれますように。
痛みや損失を恐れることなく、愛と勇気をもって歩んでいけますよう導いてください。そして、私たちの小さな献げが、あなたの御手によっていつの日か豊かな実を結ぶことを信じさせてください。
これらの感謝と願いを貴き主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。 アーメン。