クリスマスの星に導かれて

マタイによる福音書2章1~12節 2025年12月21日(日)クリスマス礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 春夏秋冬、四季折々にはそれにふさわしい色彩というものがあります。春であれば若草色、夏であれば海や空の青、秋であれば紅葉の彩り、そして冬は鉛色の雲の色といったところでしょうか。

 それと同じようにクリスマスにも、色があります。クリスマスの色って、どんな色でしょうか。緑と赤ではないだろうかと思う人があると思います。たしかに、クリスマスには、柊(ひいらぎ)でクランツを作ったり、赤い蠟燭を灯したりします。クリスマスーツリーは樅(もみ)の樹のような常緑樹に、赤い飾りものを吊るして作るのです。ですから、クリスマスには緑と赤が溢れるのです。

 なぜ、緑と赤を用いるのでしょうか。緑色はとこしえの命を象徴し、赤はキリストの十字架の血や光を象徴すると見られるからです。クリスマスに緑を見たら、永遠の命を、赤を見たら、キリストの血やそれを通して与えられる光を想いおこすとよいでしょう。

 しかし、教会の暦に定められているクリスマスの色は、実は緑でも赤でもなく、白なのです。ですからカトリック教会などではクリスマスになりますと、司祭の方は白のガウンを着て、礼拝の司式をされるのです。白は純真な喜びを表すと考えられてきたからです。それだから「ホワイト・クリスマス」なのですね。

 クリスマスには、プレゼントがつきものです。クリスマス・イブの夜が明けて、朝、枕元においてあるプレゼントに歓声をあげた思い出をもっている人があるでしょう。私も、子どもたちが小さいときに、クリスマスが来るよほど前から、妻と何を子どもたちに贈ろうかと相談し、それらを密かに買い揃えては、クリスマス・イブの夜、子どもたちの枕元に置いておいたものでした。朝になって、それらを見つけた子どもたちが歓声をあげて喜んだことを、昨日のことのように思い起こします。みなさんの中にも、クリスマスが来るというので、自分の親しい人に何をプレゼントしようかと、あれこれ考えている人も大勢いると思います。

 しかし、クリスマスの日に起こったことを考えてみますときに、一番大事な点は、人にプレゼントをあげたり、人からプレゼントを貰うというところにあるのではないということに、思い至らないわけにはいきません。どうしてかというと、クリスマスは何よりも、神様が掛け替えのないプレゼントを私たちにくださる日に他ならないからです。ですから一番大事なことは、神様が私たちにくださったプレゼントを、しっかりといただくというところにある、と言わなければならないのです。

 先ほどクリスマスの色のことをお話ししましたが、クリスマスにはそれを彩る素敵な音楽や心をうつ美しい絵や見事な飾り付けがあります。音楽であればヨハン・セバティアン・バッハの「クリスマス・オラトリオ」やヘンデルの「メサイア」、絵画であればフラ・アンジェリコの「受胎告知」やジョルジュ・ド・ラ・トウールの「羊飼いの礼拝」など、あまたの美しい音楽や絵画・彫刻をあげることができます。ドイツのローテンベルクで売られているケーテ・ヴォルハルトのクリスマスのオーナメントなど、思わず声をあげたくなるほどに良くできています。それはもう途轍もなく素晴らしいものがたくさんあるのです。それは人間の文化の中でも、最良のものと言って良いものばかりです。ですが、それがどんなに素晴らしいものであれ、それらはみな、神様がくださる贈り物を包む包装紙にすぎないのです。と言いますのは、それらは結局、私たちに起こったクリスマスの出来事そのものを指し示すものでしかないからです。

 それでは、その神様のプレゼントとは何でしょうか。皆さんが心に思っている、それです。イエス・キリストです。飼い葉桶の中に横たわっている幼子です。

 でも、イエス・キリストって、私たちにとってどういう意味をもつ存在なのでしょうか。先ほど読んだマタイによる福音書の2章11節に東から来た博士たちが幼子イエスの前に膝まずいてこれを拝み、黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げたと書いてありました。イギリスにウイリアム・バークレーという著名な聖書学者がいますが、この人の書いた『マタイ福音書』という本に、博士たちの献げた献げものは、その一つ一つが、主イエスの人柄とその働きにふさわしい、ということが書いてあります。実際、その通りで、この献げものの中に、主イエスという方が、私たちにとってどのような方なのかということが、みごとに表現されているように私にも思えます。ちょうど、水面に映る月を見て、月の輝きを知るということがあるのと同じで、博士たちの献げものは神さまが私たちにくださる贈り物がどのようなものであるかを映し出すものと、私には思えるのです。

  博士たちの献げものは何だったでしょうか。

 第一に、黄金です。黄金によって映し出されているものは何でしょうか。それは主イエスという方が、真の王さまだということです。なぜなら、イエス・キリストの時代、王さまに最もふさわしいものは黄金であると、考えられていたからです。聖書では、王さまとは、自分の利益や自分の力のことを最優先に考えて、国民から取り上げることをする人であってはなりませんでした。王さまとは、神さまが与えてくださる幸いが人々のものになるように人々を導き、治める人にほかなりませんでした。博士たちは、主イエスの中に、自分たちを導いてくださり、神さまが与えてくださるほんとうの幸いに至らせてくださる方、蠅の王でも、人間の王でもなく、真の王を見たのです。

 人は、いつも自分を幸いなところに至らせてくれる人を求めます。この人のもとにいればと思い、あの人ならきっとと思って、右往左往するものです。でもどれほど、そのような想いは裏切られてきたことでしょうか。しかし、この飼い葉桶の中に横たわる方は、その方に心を寄せ、信頼する人を、神さまが与える幸いへと導かれる王なのです。

 博士たちは、次に乳香を捧げました。乳香というのは、樹液からとるクリーム状の香ばしい油のことです。これが映し出すものはなんでしょうか。それはイエス・キリストこそ、私たちを取りなしてくださる方だということです。乳香は、祭司が人の罪の許しを求めて、取りなしをするときに用いたものだからです。

 人にはしばしば誤りを犯すことがあります。しょっちゅう愚かなことをしでかします。大抵は、ごめんなさいといって済むこと、「ばかだな、私は」といって頭をコツンとたたいて済むことです。しかし、どう悔やんでも取り返しがつかないことを言ったりしてしまうこともあります。そればかりか、自分の存在そのものがもつ、どうしようもない罪性(罪の性質)に打ちのめされるということも、あります。よかれと思ってしたことが、一つ一つマイナスにしかならなかったことに気づかされるとき、茫然自失するばかりです。

 しかし、その私の過ちや愚かさや罪を完全に背負い、取りなしてくださる方がある。主イエスよ、あなたこそその方であると、博士たちは乳香を捧げることで表現しているのです。

 博士たちの第三の献げものは没薬です。没薬とは、死んだ人の葬りのために使ったものです。その没薬を博士たちは幼子イエスに捧げた。そうだとするとこれは、赤ちゃんのお誕生のお祝いに、お線香をもっていくようなものです。あまりに場違いな贈り物です。しかし、博士たちが最後に捧げたものは、まぎれもなくこの没薬でした。それが意味しているのは、主イエスは死んでくださるためにおいでになった方だということです。

 私たちの本当の王でいてくださるために、この方は私に代わって死んでくださる。私の本当の取りなし手でいてくださるために、この方は私たちの罪を背負って十字架の上で死んでくださる。博士たちは主イエスの中にそれを見たのです。 博士たちの献げものは、私たちに与えられる神様の贈り物が何であるかを映し出しています。私たちの真実な王さま、私たちを本当に取りなし、罪から解き放って、本当の命にいたらせてくださる方、そのためには死をさえ惜しまれない方だということです。

 神さまがくださるこの値高いプレゼントをしっかりこの身にいただくなら、その人は自分が最善の導きの前にあり、生きることに対する赦しと大いなる肯定の中にあることを、心に深く噛みしめて生きることができるでしょう。自分とこの世界とを神の深い愛が包んでいることを知って、歩むことができるでしょう。

 私はこの神さまの価高い贈り物を、心からいただきたいと思っています。そしてできることなら、神さまがこれほどのプレゼントをくださったのですから、私自身もまた、自分自身を人々に対する贈り物と考えて、人々に最善をなしていきたいと願っているのです。

 今日、私たちはクリスマスをお祝いしています。神様が与えてくださるプレゼントが、私たちに一人一人に差し出されています。その大きな恵みを、ご一緒に喜びたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日のクリスマス主日礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができますことを感謝いたします。クリスマスは御子イエス・キリストの誕生を感謝し、喜びの礼拝を捧げる日です。神様は私たちに神の独り子という至高のプレゼントを与えてくださいました。御子イエス・キリストは、私たちを真の幸いに至らせるために、また私たちの罪を贖いあなたとの和解を実現くださるために、ご自身の命を捧げられました。馬屋の飼い葉桶には、その誕生の時から十字架の影が射していたと言われる通りです。どうか、そのような貴いプレゼントを私たちがしっかり受け取ることができるようにしてください。この礼拝において、一組のご夫婦の入会式と聖餐式を行います。また、礼拝後にはクリスマス祝会も行われます。どうか、その一つ一つの上に、あなたの豊かな祝福を注いでいてください。思いを持ちながらも色んな事情のためにこの礼拝に集うことのできなかった兄弟姉妹の上にも、私たちと同じ祝福を与えていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。