ルカによる福音書1章26~38節 2024年12月8日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝はアドベント第二の主日礼拝を守っています。あと2週間でクリスマスです。クリスマスは、神の御子イエス・キリストがこの世界に誕生してくださったことを喜び、神さまに礼拝を捧げる日です。神の御子がこの世界に誕生するために、その母となる使命を与えられたのが、ナザレの村に住む一女性であるマリアでした。今日お読みいただいたルカによる福音書1章26~38節は、そのマリアに御子が宿ることを、天使ガブリエルが伝える「受胎告知」の場面です。
最近、この10月に逝去された高階秀爾(たかなししゅうじ)という美術史家の書いた、『受胎告知 ~絵画でみるマリア信仰~』という小さな本を読みました。受胎告知は、西洋絵画の歴史において多くの画家が手がけた題材であったようです。それは絵の注文主の多くが、教会や修道院や王侯貴族であったことと関係しています。そして、教会などに飾られた絵画は、文字の読めない庶民の信徒たちにとって、聖書の福音を知らせる視聴覚教材でもあったのでした。特にカトリック教会では、マリアは神の母(テオ・トコス)として絶大な崇敬を受けていましたので、各時代の画家たちは競うようにして、受胎告知の絵を描いたのでした。
日本にある受胎告知の絵としては、倉敷市の大原美術館にあるエル・グレコの受胎告知が有名です。画面の右側には、大きな翼を背中につけた天使ガブリエルが、1メートルほど宙に浮きながら、右手を高く上げ、マリアを見つめています。マリアは驚いたような、恍惚としたような表情で、天使を見上げています。マリアの左手はつい今まで読んでいただろう聖書のページに、栞代わりに置かれています。右手は手のひらを天使に向けて、御告げを受け入れる恭順の意志を表しています。天使とマリアの間には、聖霊の働きを表す白い鳩が、稲妻のような光と共に描かれています。そして、受胎告知の絵にはつきものの、花瓶に生けられた花も添えられているのです。しかし一つ、多くの受胎告知の絵と違う点が、エル・グレコの絵にはあります。それは、多くの受胎告知の絵では、天使が左にマリアが右に描かれるのに対し、彼の絵では天使が右にマリアが左に描かれているのです。いずれにしても、エル・グレコは、夜の場面に起こった神秘的でドラマチックな出来事として、受胎告知を描いたのでした。私たちもかつての画家のように、受胎告知の場面を心に描き出すことができるかもしれません。
さて、聖書の今日の箇所に入っていきましょう。神の御子イエス・キリストを宿すということを、マリアは天使ガブリエルから告げられます。その告知の時、ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけます。28節です。それだけではありません。30節では「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と言われます。ナザレのおとめマリアに起こることが、「恵み」であると言われるのです。
マリアに「恵み」が臨んだ、到来したというのです。それはどんな「恵み」であったのでしょう?それは28節にありましたように、「主があなたと共におられる」ということでした。主なる神の御子を、その身に宿すということでした。神から与えられた聖霊の力が臨み、神の御子をその内に宿すようになる。そのことによって、主が共にいてくださる。それが天使の告げる「恵み」であったのです。
ある聖書の注解者は、「第一のマリアに起こったことは、第二、第三のマリアにも起こる」と、書いていました。そうです。御子イエス・キリストを肉体に宿したのは、ナザレのおとめマリアだけです。しかし、私たちも信仰において御子イエス・キリストを心に宿すことができます。上からの力である聖霊が臨むとき、第二、第三のマリアになることができます。御子イエス・キリストが聖霊によって私たちの内に宿ることによって、神は私たちと共にいてくださいます。クリスマスの出来事によって与えられた「恵み」は、マリアだけではなくて、私たち信じるすべての者に与えられるのです。
しかし、この「恵み」、マリアに与えられた「恵み」はどんな恵みであったのでしょう? この「恵み」は、ただありがたいだけの安っぽい「恵み」ではありませんでした。マリアは、神の御子を身ごもると聞いたとき、この超自然的な出来事が、彼女の将来にどんな茨の道を用意するか、知らなかったはずはありません。婚約者であるヨセフは、自分の言うことを信じてくれるだろうか。世間の人々は、普通ではない妊娠をどう思うだろうか。何と噂するだろうか。そのような不安や戸惑いが、なかったはずはありません。マリアに与えられた「恵み」は、そうした深い思い悩みと無関係ではなかったのです。
またこの「恵み」は、我が子である主イエスがユダヤの官憲に捕らえられ、ローマ総督の手によって十字架に掛けられるという悲しみへと、彼女を突き落とすものでした。十字架から降ろされた主イエスを抱くマリアを描いたピエタ像は、マリアのそのような悲しみを表しています。そのように、主イエスを内に宿し、主が共におられるという「恵み」は、人として経験する様々な苦しみや悲しみから、私たちを遠ざけるものではないのです。この「恵み」があるから、人生の困難が無くなるということではないのです。かえって信仰者であるがゆえに、そのような困難と真正面から向き合わなければならないこともあるのです。
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、このように言っています。1章29節です。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」イエス・キリストを信じるキリスト者は、キリストのために苦しむという「恵み」も与えられている、とパウロは言うのです。考えてみれば、キリストを宣べ伝えるために、パウロほど多くの苦しみを経験した人はいないでしょう。その苦しみの一端は、コリントの信徒の手紙二11章23節以下に記されています。「わたしは…苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭で打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目にあったことも度々でした。…」
しかし、キリストのために苦しむ苦しみ、キリストを内に宿す者として味わう苦しみは、苦しみで終わるのではありません。それはやがて、「恵み」として受け取ることになる苦しみなのです。キリストを信じるがゆえに味わう人生の様々な苦しみは、「恵み」へと変えられます。無目的な、無意味なままに終わることはありません。私たちと共におられる神さまは、そのような「恵み」を与えてくださるお方なのです。嘆きの谷をくぐり抜ける「恵み」を与えてくださるのです。
母マリアは、主イエスが誕生してから約30年後に、我が子が十字架につけられる姿を見なければなりませんでした。十字架を見つめる女性たちの中には、母マリアの姿がありました。マリアはその時、胸の潰れるような思いをしたに違いありません。しかし、その母マリアはそれからしばらくして、復活の主イエスに出会うことになるのです。無惨に死んでいったと思っていた我が子が、復活した。そして、誕生の時天使に告げられたように、「いと高き方の子と言われるよう」になった。父なる神さまの永遠の御支配を、この世界にもたらす王となられた。思慮深く、神さまのなさることを思いめぐらす人であった母マリアは、自分の味わった不安や困難、悲しみが、このような神さまの大いなる救いのご計画が実現するためのものであったことを、悟ることができたのです。
そして、第一のマリアに起こったことは、第二、第三のマリアである私たちにも起こります。私たちもマリアのように、そしてパウロのように、信仰者として歩む中で、様々な不安や苦しみ、悲しみに遭遇します。信仰者でなければ遭わなくてもよかった苦しみに、見舞われることもあるでしょう。私たちのどこが「恵まれた方」なのかと、叫んでしまうこともあるかもしれません。しかし、神さまは必ず、主にあって神さまが共にいてくださることが「恵み」であることを悟らせてくださいます。信仰者として生きる中で経験しなければならなかった苦しみや悲しみを、私たちは神さまの摂理の中で、「恵み」をして受け取ることができるようにしてくださるのです。
今日の箇所で天使ガブリエルは、マリアの戸惑いを聞いて、「神にはできないことは何一つない」と言いました。今日の聖書の文脈では、年老いた女性や男性を知らない女性が身ごもるということが、「できない」ことと考えられているのでしょう。確かにそれは、人間の常識を越えたことです。しかし、それだけではありません。神さまは、さらに大きな、人間にはできないと思われることをなさいます。神さまは私たちの人生に意味を与えられます。私たちが歩んできた人生の意味そのものを、神さまは創り出してくださるのです。
苦労続きで、自分の人生に何の意味があるのだろうと、私たちは思い悩みます。今まで生きてきて、自分の人生にどんな意味があったのだろうと、虚しくなることがあるかもしれません。私たちの存在そのものが、ぐらぐらと揺らいでしまうのです。しかし「神にはできないことは何一つない」。神さまは、私たちが後悔してきた人生、諦めていた人生の意味を、まったく180度変えてしまうことがおできになるのです。私たちの人生に、全く違う人生の意味を創造してくださる、創り出してくださるのです。そしてそれは、私たちがどのような人生の段階にいようと、どのような状況の中にあろうと、妨げられることはないのです。なぜならば、「神にはできないことは何一つない」からです。
そのような「恵み」が与えられたのが、クリスマスの時でした。そしてその「恵み」を知らされた私たちもまた、マリアと共に心から信仰を言い表すことができるのです。神さまの導きにわが身のすべてを、おゆだねすることができるのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日もアドベント第2主日礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを、心から感謝いたします。神の独り子を宿すこととなったマリアの箇所を共に学びました。マリアに起こったことは、信仰において私たち一人ひとりにも起こります。聖霊の働きによって私たちはイエス・キリストを心に宿します。そのことよって、神さまが私たちと共におられるという「恵み」を与えられます。その「恵み」の広さ、深さ、大きさを味わうのが、キリスト者の人生です。どうか、「神共にいます」という恵みに生かされて生涯を歩み通すことができますよう、私たちを導いていてください。12月らしくない気候が続きましたが、今日から本格的な寒さが到来します。どうか、教会につながる兄弟姉妹を顧み、その心身の健康をお支えください。そして主の御降誕を待ち望む喜びの中で、この一週間を過ごさせてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。