マルコによる福音書10章17~31節 2025年1月19日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうして主イエスはこんなことを言われたのでしょう。それは今日朗読してくださった話の流れから察することができます。その直前に、主イエスは財産のある人と話をしていたからです。
その人は神の救いを求めて主イエスのもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼が切に求めていたのは、死をもって失われないもの、世の終わりにおいても失われない、最終的な神の救いでした。
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼はこれまで自分にできることをしてきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。主イエスが「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」しかし、それで十分だとは思えなかったのです。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。
主イエスは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。この主イエスの言葉は、救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明しています。そこで主イエスは弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。
ところで、厳密に言いますと、この23節の「財産」と22節の「財産」では、元の言葉が異なります。23節で「財産」と訳されているのは、もともとは「使う」という言葉に由来する単語です。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは必要に応じて使うことができるものを持っていたということです。欲しいものを得るために、彼は財産を使うことができるのです。
しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと考えた。子供の時から律法を守ってきた積み重ねは、彼にとって永遠の命を得るために「使えるもの」だったのです。
その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い、これらもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうとしていたのです。そして、彼がそうしたがっているので、主イエスはそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。しかし、そこで彼は悲しみながら立ち去ることとなりました。
それを見て主は言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです、人間にはそれができると考えていたことです。
主イエスは今日の27節で、「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃいました。「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。主イエスがこう言われたのは、弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということです。
「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。――それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。
「神にはできる」という主イエスの言葉が本当の意味で自分の信仰告白となるのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時だけです。ですから主イエスは別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。
そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能を神がどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を救い、永遠の命を与えることがおできになります。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られた主イエスは、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。
しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」と主イエスが言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。
彼らが考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。主イエスが単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が、今度はペトロにとって「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、ペトロの言葉はこう伝えられています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。
主イエスはペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主は言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。
主イエスは「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は、「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。主イエスの故にとは、どういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。
先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れでした。私たちを救うことができる神の、一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。その主イエスのためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。
実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。しかし、それは救いを得るために払わなくてはならない犠牲ではないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。それらはすべて恵みに対する応答としてなされることなのです。
それゆえに、主は言われたのです。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく「イエスの故にまた福音の故に」恵みに応えて行ったことが、結局は報いを受けるのです。
そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、大事なことは、《ただ神の恵みへの応答として行う》ということなのです。ならば本当に必要なのは、恵みを知るということなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。そして、ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」は、そこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」と。お祈りをいたしましょう。
【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美し、御栄を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで、礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も共に御言葉に聞きました。どうぞ、あなたが御子を通して与えてくださった恵みを、何よりも私たちが感謝して受け取ることができますよう、導いていてください。昨日は敬愛する栗原章雄さんの送る会を行うことができて感謝いたします。ご遺族の上にあなたの慰めと平安をお与えください。この拙きひと言のお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。