イエスとは何者か

マルコによる福音書8章27~30節 2024年9月15日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書をご一緒に読み進めていますが、今朝与えられております御言葉は、分量的にも内容的にも、マルコによる福音書の真ん中に当たります。今朝与えられております御言葉において、ペトロが遂に主イエスに対して「あなたは、メシアです」、救い主、キリストですと告白いたします。この告白以後、主イエスは御自身が十字架に架けられて死ぬこと、三日目に復活することを、弟子たちにはっきりと語り始められます。そして主イエスは、御自身が十字架に架けられるためにエルサレムへと歩みを進めていくことになるのです。主イエスは、これまでも様々な奇跡をなし、教えを語ってこられましたが、それらはすべて、御自身が誰であるかということを示すためであり、御自身を遣わされた神様の御心が何であるかを示すためでした。そして遂に、十分なあり方ではないにせよ、弟子たちが主イエスをメシアであると告白するに至りました。ここに至って、主イエスが御自身の本当の目的、なさねばならないことを明らかにすることのできる備えができたのです。

 さて、ペトロが主イエスをメシアであると告白する前に、主イエスは弟子たちにこう言われました。27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」この問いに対しては、弟子たちは比較的気楽に答えることができたと思います。「『洗礼者ヨハネだ』と言っている人もいます、『エリヤだ』と言っている人もいます、『預言者の一人だ』と言っている人もいます。」多分、これが当時の、主イエスに対する人々の正直な思いだったのでしょう。

 この三通りの答え方には、それぞれ背景があります。洗礼者ヨハネというのは、主イエスに洗礼を授けた人です。人々から大変な支持を受けておりましたが、ヘロデ王によって殺されてしまいました。人々の中には、主イエスを、このヨハネが生き返ったのだと思う人がいたと言うのです。それほどまでに、人々は洗礼者ヨハネを本当の預言者と思い、彼に対して期待する所が大きかったということなのでしょう。そしてそこには、ヨハネこそ救い主・メシアではないかと期待していた人々の思いもあったのではないかと思います。

 また、「エリヤだ」と言う人々もいました。このエリヤというのは、旧約聖書の列王記に出て来る人です。主イエスより800年も前の、旧約聖書における代表的な預言者であり、数々の奇跡をなした力ある預言者でした。主イエスをあのエリヤの再来だと言うのです。それは、救い主、メシアが来る時には、その前にエリヤが再び来るという預言がマラキ書などにあり、主イエスをエリヤだと言う人々は、その救い主・メシアが到来する事への期待があったということでしょう。

 そして、「預言者の一人」と言う人もいました。マラキという預言者が出て以来久しく、何百年もユダヤには預言者は現れていませんでした。しかし、洗礼者ヨハネといい、主イエスといい、本当の預言者が次々と現れている。次は本当に救い主、メシアが来るのではないか。そのような期待が人々の中にあったということなのだと思います。

 つまり、主イエスが生きた時代、イスラエルの人々の間には、救い主が現れるのではないかという期待があったということなのです。そしてその期待感が、主イエスに対する人々の思いの中に、現れていると見てよいではないかと思います。

 主イエスは次に、弟子たちにこうお尋ねになりました。29節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これは大変厳しい問いです。「人々は何と言っているか」という問いならば、自分のことではありませんので、気楽に答えることができたでしょう。しかし、「あなたは」と問われると、話は別です。この問いに対して、弟子たちは一瞬、沈黙したのではないかと思います。そして、その沈黙を破るようにして、一番弟子のペトロが「あなたは、メシアです」と答えたのです。

この答えは、それまでの、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だという答えとは、全く質が違う答えなのです。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だというのは、平たく言えば、「神様に遣わされた凄い人だ」ということです。しかし、ペトロが口にした「メシアです」というのは、凄い人だということではないのです。そうではなくて、旧約において預言されてきた救い主、この方によって歴史が変わり新しい時代に入っていく、この方によって神様の救いの業が完成する、この方によって神様の御心が完全に現される、もっとはっきり言えば、天地を造られた神様そのもの、私たちが拝むべきお方ということなのです。聖書は、天地の造り主である神様しか拝むことをしません。ですから、どんなに凄い人、偉い人であっても、それが人であるならば、拝むことはしません。しかし、メシアは全く別なのです。

 このメシアという言葉、これは直訳すれば、油注がれた者という意味のヘブル語です。この油注がれた者という意味のギリシャ語がキリストです。ですから、メシアもキリストも全く同じ意味です。旧約において、油を注がれて神様の御用に立てられる大切な職責が三つあります。預言者、祭司、王です。メシア、キリストは、まことの預言者、まことの祭司、まことの王として来られる。そういう方として旧約以来イスラエルの民が待望していた方だったのです。この方によって神様の御心は完全に明らかにされ、この方によって完全な救いが実現され、この方によって神様の御支配が完全に行われる。それがメシア、キリストなのです。それは、凄い人、偉い人というのとは全く次元が違います。この方によって天地創造以来の神様の救いの御計画が完成されるのです。

 マタイによる福音書16章13節以下にはここと同じ記事が記されておりますが、そこではペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えています。「メシア」を「生ける神の子」と言い換えています。これは、ペトロがメシアの意味を解釈しているわけです。ただの偉い人なんかじゃない、天地を造られた神様の独り子だと告白しているわけです。そして、それに対して主イエスは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。主イエスのことを何か凄い人だ、偉い人だと思う、そのような方として受け入れる。それは難しいことではありません。主イエスの言葉を一つでも聞き、奇跡の一つでも見れば、そのくらいのことは誰でも思います。社会の教科書にだって、主イエスはソクラテスやお釈迦様や孔子と並んで聖人に数えられています。偉い人とは、そういうことでしょう。

 しかし、ペトロがここで告白したのは、そういうことではないのです。あなたはキリスト、神の子、救い主、私が拝むべきお方、私の主人。そう告白したのです。それは、主イエスを信じた、主イエスを信じる信仰がここに生まれたということなのです。ですから主イエスは、マタイによる福音書によれば「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたのです。天の父なる神さまによって示されなければ、主イエスがキリストであるということは、誰も告白することはできないからなのです。信仰は与えられるものです。神さまが与えてくださるものです。そうでなければ、主イエスを神の子、救い主、キリストと信じることはできないからです。

 主イエスを救い主、キリストと告白するということは、単なる言葉の問題ではありません。その人がその信仰によってどう生きるかということです。この「信仰によって生きる」ということが抜けてしまえば、信仰にはなりません。当たり前のことです。もちろん、私たちの信仰はどこまでも不完全であり、私たちはどこまでも不信仰でありましょう。しかし、不完全なりに、不信仰なりに、何とか「イエスはキリストです」、「イエスは私の主です。」この信仰に生きたいと思う。そしてそのために、天の父なる神様の支えと導きを願い祈る。それが私たちの歩みなのでしょう。

 私たちが、「イエスはキリストです」と告白するということは、「イエスは主なり」と告白することと結びついています。この二つの告白は分けることができません。主イエスはキリストですが私の主ではありませんとか、主イエスは私の主ですがキリストではありません。そんな信仰はないでしょう。私たちの信仰は、「イエス様あなたはキリストです。そして、私の人生の主人は私ではなく、イエス様あなたです。」そう告白し、生きることです。この二つの信仰告白は分けることはできません。だから私たちは、「主、イエス・キリスト」と言うのです。「私の主人であるイエス様、あなたはキリストです。」そう告白し、その信仰に生きるのです。

 キリスト教会が生まれたのは、ローマ帝国の時代でした。ローマの文化は、ギリシャ神話と同じ神話を基礎にしていますから、元々多神教であり、自然宗教です。これは日本も同じです。多神教の文化の中では、人間が平気で神様になり、拝まれるということが起きます。ローマ帝国の時代、ローマ皇帝もまた拝まれました。主イエス・キリストは、ギリシャ語ではキュリオス・イエスース・クリストスと言うのですが、この主という言葉、キュリオスという言葉は、ローマ皇帝に対しても用いられていたのです。

しかしキリスト者たちは、キュリオス・イエスース・クリストスと言うことによって、私の主、私のキュリオスは、救い主キリストである主イエスであってローマ皇帝ではない、ということを言い表すことになってしまったのです。もちろん、ローマ皇帝に忠誠を誓わないとか、反逆するということではありません。しかし、私の主は主イエスなのです。主イエスを差し置いて、この世におけるどんな権力ある者に対しても、「あなたが私の主」とは言えなかったのです。これは当然、キリスト者たちを厳しい状況へと追い込みました。それでも、キリスト者たちは、自分の主人は主イエスです、主イエスは生ける神の子キリストなのですから、そう告白し、生きたのです。私たちの主は、ただキリストである主イエスだけなのです。この告白の意味することを、いつも心に刻みつけながら、新しい一週間を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主であるイエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちはあなたの遣わされた御子を、主イエス・キリストと呼び、崇めています。私たちに救いを与え、私たちが主とするお方はこの方しかおりません。どうか、私たちがこのお方を世に向かって力強く告白すると共に、このお方に依り頼んで生きることができますよう、私たちを導いていてください。今日の礼拝後私たちの教会の信仰の先輩方を覚えて、お祝いの愛餐会を行います。どうか、信仰の先輩方があなたの御護りとお支えの中で日々歩むことができますよう、導いていてください。この拙き切なるひと言のお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。