マルコによる福音書13章28~31節 2025年7月20日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝朗読されたマルコによる福音書第13章28節に、「いちじくの木から教えを学びなさい」という主イエス・キリストの御言葉が記されています。いちじくの木は、主イエスがおられた地域ではごくありふれた、どこにでもある木でした。主イエスもここで、いちじくの木の様子が季節によって変わっていくことを示しておられます。それによって教えようとしておられるのは、移り変わっていく木の姿から、今がどのような時なのかを知れ、ということです。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近いことが分かる」ということです。
ここに、聖書における物事の見方、捉え方の一つの特徴が表れています。それは、物事を時の流れの中で捉え、今がどのような時で、これからどうなっていくのかを考える、ということです。それを歴史的感覚と言うこともできます。歴史の年表を思い浮かべて下さい。年表は直線的です。そういう直線的な歴史の流れの中を生きているという感覚です。そこでは、過去を振り返り、過去の影響の下にある現在を見つめ、今どうすることによってこれからどうなっていくという展望を持って、将来に向かって進んで行かなければならないのです。
主イエスがいちじくの木から学べと言っておられるのは、そういう歴史的感覚です。しかもそれは、私たちがよく耳にしているような、これからの世界経済はどうなっていくかとか、少子高齢化が社会にどのような影響を及ぼしていくか、気候変動によって地球はどうなっていくかなどといった、深刻な問題ではありますが、しかし目先の歴史を見つめる感覚ではありません。主イエスはもっと根本的な、この世の終わりをも視野に入れた歴史的感覚を持つようにと言っておられるのです。29節に「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。いちじくの葉から夏の接近を知るように、「これらのこと(すなわち、13章のこれまでのところで述べられた出来事)」を見たら「人の子が戸口に近づいている」ことを悟れ。それは、主イエスがもう一度この世に来られ、それによってこの世が終わる時が近づいているということです。主イエスの再臨によるこの世の終わりを視野に入れて生きよ、と主イエスは言っておられるのです。
しかしそれは、あと何年で主イエスがもう一度来てこの世が終わるのか、ということをいつも考えながら生きるということではありません。「人の子が戸口に近づいている」という言葉をそのような感覚で捉えるなら、初代の教会の時代からもう二千年が経とうとしているのに、まだ人の子は来ていない、主イエスのこの御言葉は間違っていたのではないか、ということになるでしょう。しかしこの御言葉は、世の終わりまであと何年か、ということを考えさせようとしているのではないのです。教会の歴史の中には時折そういう間違いに陥った人々が現れました。何年何月何日にこの世が終わる、などと言い出す人が現れたのです。そのような思いに捕えられてしまった人は、本来神様から自分に与えられているはずの日常の生活に手がつかなくなってしまいます。そして「もうじきこの世が終わるなら、今さら何をしても仕方がない、せいぜいやりたいことを好きなだけして楽しもう」という享楽的な生き方になるのです。しかし「人の子が戸口に近づいている」ことを意識しつつ生きる生き方とは、そのようなものではないのです。
それでは、どのように生きることが世の終りを意識して生きることなのでしょうか。宗教改革者ルターの言葉とされていますが、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」という言葉があります。この言葉に現されている生き方こそ「人の子が戸口に近づいている」こと、つまりこの世の終わりが始まっていることを、正しく意識して生きる信仰者の生き方なのです。
このルターの言葉には、この世の終わりを視野に入れた歴史的感覚が語られています。歴史的感覚を持つとは、過去を振り返ることによって今の時代の意味を捉え、将来への展望を持って、今自分がなすべきことを見定め、実行していくことです。つまり「私は今日リンゴの木の苗を植える」ということに示されているように、今をしっかりと生きることです。つまりこの言葉に言い表されているように、この世の終わり、終末を見つめつつ、それでも刹那的な生き方に陥らない歴史的感覚を持ちつつ、将来への展望を持って、今を生きることが大切なのです。
それは、この世の終わり、終末を見つめる時だけのことではありません。私たちの人生の終わりである死を見つめる時にも、同じことが起こります。死は、私たちの人生の終末であり、この世において自分が持っている全てのものを失う時です。この世における自分の営みが無に帰することです。そういう死が自分にも必ず訪れますし、人生は その死に向かって確実に近づいているのです。死は私たちに「終わり」があることを意識させます。私たちの人生が、閉じられた円の上を繰り返し回る円環的なものはなくて、始めがあり終わりがある直線なのだということを、死が教えているのです。つまり死は、私たちの人生に終わりがあることを見つめさせることを通して、この世の終わり、終末を私たちに見つめさせるのです。この世の終わりが、私たちの人生において先取りされるのが死であると言うことができます。その死を正面から見つめる時、私たちはやはり空しさに捕えられ、刹那的になってしまう。そうならないためには、明白な事実である死をできるだけ見ないように、それには触れないように蓋をして、ごまかして生きている、それが私たちの現実なのではないでしょうか。その点からいえば、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言ったあのルターの言葉は驚くべきものです。それは言い換えれば、明日死ぬことが確実に分かっているとしても、私は今日も自分のいつもの仕事をする」ということです。このように、終わりを、死を、正面から見つめつつ、それによって動じることなく、刹那的にならずに、今をしっかりと生きていくという生き方は、一体どこから生まれるのでしょうか。
その秘密は、本日の箇所の31節にあると言うことができるでしょう。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。ここには、天地が滅びること、つまりこの世が終わり、人間の営みが全て無に帰することが明確に見つめられています。しかしそれと同時に、その終わり、喪失、崩壊においても決して滅びることのないものがあることが見つめられているのです。その「滅びないもの」とは「わたしの言葉」です。主イエス・キリストの御言葉、神様の御言葉です。天地が滅びても、神の言葉だけは決して滅びない、その滅びないものを見つめる時に、そこには展望が与えられ、刹那的にならない生き方が与えられていく。主イエスはそのことを私たちに見つめさせようとしているのです。
天地は滅びても神の言葉は決して滅びない。旧約聖書イザヤ書40章6節以下にも同様のことが語られています(旧約1124頁)。主の風が吹きつけると、草は枯れ、花はしぼむ、しかし私たちの神の言葉はとこしえに立つ。その草や花とは、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」とありますから、この世を生きている私たちのことです。私たちは、主の風、熱風によって、草や花のように枯れ、しぼんでいくのです。そのことが私たち一人一人の人生において起こるのが死であり、この世界全体に最終的に起こるのがこの世の終わりなのです。しかしその終わりの時の崩壊、滅亡を越えて、神の言葉はとこしえに立ち、決して滅びない。ルターは、その決して滅びることのない神の言葉を見つめていたのです。それゆえに、全てのものが滅びていくこの世の終わりを見つめつつ、また自らの人生の終わりである死をも見つめつつ、なお展望をもって、刹那的になることなく、「明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言うことができたのです。
この神の言葉が、天地が滅びてもなお滅びることがないというのは本当でしょうか。天地が滅びて人間が皆死んでしまえば、どのような言葉も人間と共に滅びてしまうのではないかと、私たちは思います。しかしそうではないのです。そのことを告げているのが、主イエス・キリストの復活です。神の子主イエスは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さっただけではありません。その主イエスを、父なる神様が復活させて下さったのです。つまり主なる神様が死の力を打ち破って、主イエスに、新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。
それは、私たちにも同じ復活の命、永遠の命を与えて下さるためです。主イエスを復活させて下さったことによって神様は、私たちをも死の支配から解放し、永遠の命を与えて下さるということを約束して下さっているのです。神の言葉は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神様のこの救いの約束を告げ知らせています。言い換えれば、独り子イエス・キリストによって示された神様の愛が、死の力をも打ち破るものであり、私たちの人生の終わりである死を越えてなお、私たちを新しく生かすものであることを、神の言葉は告げているのです。それゆえに、この神の言葉、そこに示された神の愛は、私たちの死と共に滅びてしまうようなものでありません。この世の終わりに天地が滅びても、それと共に滅びてしまうことはないのです。
この世の終わりに天地が滅びる、そのことは既に始まっており、そこに向けての苦しみを既に私たちは味わっています。しかしそれらの大きな苦しみを経て、最終的に実現するのは、26節に語られていたこと、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」ということなのです。つまり人の子主イエスが、救い主としての力と栄光をもってもう一度来て下さり、そのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。それによって私たちの救いが完成し、復活と永遠の命が与えられるのです。私たちキリスト者は、そのことを待ち望みつつ、忍耐と希望に生きるのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を讃美し御栄を褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。神様、御子イエス・キリストは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。この御言葉はイエス・キリスト御自身であり、主が十字架と復活によってもたらしてくださった永遠の命です。この世界の終わり、自分の命の終わりを必ず経験する私たちですが、この滅びない御言葉に支えられて、今という時を建設的に、自分の使命を覚えて生きることができるようにしてください。暑さが大変厳しい日がしばらく続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。