創世記12章1~9節 2024年10月13日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
信仰の父と呼ばれるアブラハム。これからしばらくの間、アブラハムの歩みを辿りながら、私たちの信仰のあり様を整えられていきたいと願っています。
今朝与えられております創世記12章からアブラハムの物語が始まるのですが、その直前の11章27節以下の所に、大変興味深い記述があります。アブラハム、この時はまだアブラムですが、彼の父はテラ、兄弟にはナホルとハランがいた。彼らは、もともとカルデアのウルに住んでいたというのです。このウルという町は、古代メソポタミア文明の中心地です。現在、発掘もされ、中学生の地図にも載っています。チグリス川とユーフラテス川が合流する所の近く、現在はイラク領になっている所にあった町です。このウル、当時の世界最大の文明都市と言ってよいでしょう、そこを出発して、ユーフラテス川を700km程北上して、ハランという町に住んでいたのです。そして、アブラムの妻サライは不妊の女、子どもが産めない体であったというのです。アブラムとその妻サライの家系は、これで終わる。そういうことになるはずだったのです。
アブラムはすでに75才、妻のサライは65才でした。しかし、突然、アブラムに神さまの言葉が臨んだのです。12章1節「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」いったい、これはどういうことなのでしょうか。4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。神さまが「わたしの示す地に行きなさい」と告げ、アブラムは、その言葉に従って旅立った。ここに「信仰の父アブラハム」が誕生したのです。その後、私たちに至るまで連綿と続く「神の民」の歴史が、ここに始まったのです。「神の民」とは、実に神さまからの「わたしの示す地に行きなさい」との言葉を受け、それに従って旅立つ者としてあり続けてきた者たちのことなのです。この地上における富や財産よりも、神さまの言葉に従うことを、何よりも大切にする民、それが神の民です。アブラハムは、その神の民のあり様を、神の言葉に従って旅立つことによって、あざやかに示したのです。
このことを、ヘブライ人への手紙はこのように記しました。11章8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハムは、この時具体的な行き先を知りませんでした。神さまが示す地というのが、今自分が住んでいる所よりも豊かな土地なのか、住みやすい土地なのか、何も知りませんでした。しかし、彼は旅立ったのです。ただ、神さまが「行きなさい」と言われたからです。
私の知っている牧師の一人に、十年で任地を移ると決めていて、転任した教会での最初の説教は必ず、この創世記12章でやることにしていたという方がいました。彼は、自分の人生をアブラハムのそれと重ね合わせていたのでしょう。ちなみに、その方の一人息子の名前は基(もとい)でした。別に牧師でなくても、私たちは、人生の中で必ず生きる場所を変えなければならないことがあります。生まれた家を生涯離れることなく、そこに住み続けるという人は、ほとんどいないでしょう。私も、三重県に生まれ、西宮、姫路に住んで、また西宮に戻ったあとここ千葉県柏市に来ました。それぞれ転居する時には、大学に行くためとか、就職のためとか、自分の社会的状況の変化があり、それにともなう転居であったわけですが、しかし今振り返ってみますと、そこには神さまのご計画、導きというものがあったということを思わざるを得ないのです。それは、あの土地でこんなよいことがあった、あんな素敵なことがあったからというのではないのです。もちろん、そういうこともありますけれど、それだけではない。あそこからそこへ、そこからまたあちらへと移っていく中で、自分は天に備えてある神の国への旅をしている、神の国への旅の途中であることを知らされ続けたからです。自分で求めて転居したことは、あまりありませんでしたけれど、移り住んだ所で、信仰の友が与えられました。そしてその兄弟姉妹たちと共に祈り、共に神の国への道を歩んできたのです。ここが大切な所です。
アブラムは、神さまによって「行け」と言われたから旅立ったのですが、その時神さまは、ただ闇雲に「行け」と言われたわけではないのです。神さまは、この旅の涯に備えているものを約束して下さったのです。2~3節「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」最初に申しましたように、アブラムとサライの間には子どもがおりませんでした。サライは不妊の女だったのです。ところが、神さまの約束は、その事実をくつがえすものでした。神さまは、「あなたを大いなる国民とする。」と約束されたのです。これは、アブラムを大きな民族、国民の祖とする、祖先とするということでしょう。そのためにはアブラムとサライの間に子どもが与えられなければ、あり得ないことです。神さまは、現在のアブラムとサライの状況から見れば、全く不可能としか思えないような約束をしたのです。アブラムは、この約束を信じました。この約束を信じて旅立ったのです。確かにアブラムは、具体的にどこに行くのかは知りませんでした。この旅の途中で何が起きるのかも知りませんでした。不安もあったでしょう。しかし、アブラムには、神さまの約束がありました。この神さまの約束、ただそれだけを信じて旅立った。ここに神の民は誕生したのです。
私たちも明日を知りません。その意味で、不安が全くないと言えば嘘になるでしょう。しかし、神さまの約束があるのです。私たちを守り、支え、導き、神の国へと、復活の命へと招くという、約束があるのです。この神さまの約束を信じて、私たちは旅立つのです。自分が慣れ親しんでいたものから離れて、新しい局面へと、一歩を踏み出していくのです。
アブラムが与えられた約束は、自分一代で何とかなる、何とかする、そんなものではありませんでした。何十、何百代後に成就する壮大な神さまのご計画による約束だったのです。彼一代のことで言えば、イサクという一人の息子が与えられるということだけだったのです。もちろん、生まれるはずもない子が与えられるのですから、これもまた、大変なことであるには違いありません。しかし、それは、この壮大な神さまの約束と比べるならば、まことに小さなことです。しかし、それは初めの一歩なのです。
私たちはよく、小さな信仰、大きな信仰という言い方をします。それはどういうことかと言いますと、神さまを小さくする信仰、神さまを大きくする信仰ということだろうと思います。神さまの祝福の御業を、自分の考え、自分の生きている間、そういう制約の中で小さくとらえてしまう。それが小さな信仰ということなのでしょう。私たちは、もっと大きな信仰を与えられたいと思うのです。神さまの御業を、自分の理解や、自分の見通しや、自分の今置かれている状況を超えて、神さまの本来の力、本来のご計画に従ってとらえ、信頼し、それに向かって一歩を踏み出していく信仰です。
アブラムは、「祝福の源となるように」との言葉を与えられました。全て神さまの祝福を受ける者たちの基礎、ここから全ての祝福が始まる、そういう存在にあなたはなるのだと言われたのです。この言葉は、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの民に受け継がれてきました。そして主イエス・キリストの到来によって、まさに全世界へと広がり、私たちの所へと伝えられてきたのです。このアブラハムによって伝えられた神さまの祝福を今担っているのは、私たちなのです。神さまの祝福は伝えられ、広げられていきます。そして、地上の全ての民が神さまの祝福に入る、神さまの救いに与ることになるのです。このアブラハムの祝福を受け継いだ者は、皆、小さなアブラハムになるのです。私たちは、最早、自分の救いという所にとどまることはできません。全ての民が、この神さまの祝福に与ることを願い、求め、用いられることを喜びとする。私たち信仰者は祝福を世に反映する者とされるのです。
アブラムがどのような人であったのか、それ程、くわしいことはよく分かりません。少なくとも、アブラムが神さまの祝福の源とされて召し出された時、アブラムがこのような人であったので、神さまはアブラムを選んだというようなことは、一切記されていないのです。それは、私たちが選ばれたのと同じことなのです。無から有を生み出される神さまの救いの御業は、アブラムの人間的な能力によって実現されていくべきものではないからであります。強いてアブラムが神さまに選ばれた理由として挙げるならば、彼には子どもがいなかったということだろうと思います。子どもがいない。だから、大いなる国民の祖となることは不可能。アブラムの能力・力によったのでは実現不可能なことです。この人間的に見れば不可能であるがゆえに、神さまの働きは一層確かになり、明らかになるのです。神さまによらなければ実現しないからです。実に私たちもそうなのです。私たちが神さまの祝福を受け継ぎ、これを伝える者として選ばれた理由は、私たちが有能で、信仰深く、愛に満ちた者であるからではありません。まさに、それと正反対な者であるがゆえに、私たちを選ばれたのではないかと思います。ですから、私たちは自分の力のなさを嘆くには及ばないのです。無から有を生み出される神さまの力を信じていけばよいのです。アブラハムに生まれるはずのないイサクを与えられた神、主イエスを十字架の死から復活させられた神、この神の力を信じて、委ねていけばよいのです。
最後にもう一つ、大切なことを学びたいと思います。それは、7節後半にも、8節にも書いてありますが、彼が旅路の行く先々で、主のために祭壇を築いた、ということです。祭壇を築いて、主の御名を呼びました。申すまでもなく、祭壇は礼拝のためです。次のところでも、またそうしました。アブラハムの生涯は、祭壇から祭壇への生涯でした。特に最初の祭壇は、モレの樫の木のそばにあって、創世記で何度も出て来ます。彼にとっては自分の母教会のようなものでした。彼の生涯は波乱万丈の生涯でしたが、それは、礼拝から礼拝への生涯でした。それなしに、彼の旅における神の祝福は考えられませんでした。これは、私たちが毎週毎週礼拝を守ることによって、人生という旅路を全うすることの原型が、ここに既にある、ということです。私たちは信仰において、このアブラハムの子孫です。御国を目ざす旅を続ける中で、神の祝福を受け、神の祝福を語り伝えていくのです。この週も、私たち一人一人に神さまの祝福が豊かにありますように、祈りを合わせたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】わたしたちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と、体面でオンラインで礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。アブラハムの出発の記事を通して、私たち信仰者の歩みが、行き先も知らない旅であることを知らされました。しかしそのような私たちを、あなたは大いなる救いの約束を与えて導いてくださいます。その約束を信じてあなたを見上げて歩む者としてください。来週は川越弘先生をお迎えして、特別伝道礼拝を行います。どうか、この特別伝道礼拝を豊かに祝し用いてください。季節が進み気温の変化が激しいこの頃です。どうか、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。