イザヤ書9章1~6節 2025年11月30日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今年もアドベント・待降節を迎えました。今日はイザヤ書によって、救い主誕生の預言の言葉を聞こうとしています。それがイザヤ書9章1~6節です。
この預言がイザヤによって語られた時代背景について、まず考えておきましょう。先立つイザヤ書7章の時代、南王国ユダは、大国アッシリアの脅威とともに、北イスラエルとシリアの連合軍から同盟軍に加わるようにとの圧力を受けるという、もう一つの脅威の下にありました。そのような中で恐れ、ろうばいするアハズ王に「静かにしていなさい。恐れることはない」と言って励ました預言者イザヤが、神から示されて語ったのが、7章の〈インマヌエル預言〉でした。
それから十年位経過した時代が、今日のイザヤ書9章の時代です。このときすでに、恐れていた大国アッシリアが北イスラエルに侵攻してきて、その領土の一部がアッシリアの占領下におかれていました。その状況を8章22節以下の箇所から読み取ることができます。8章22~23節に「苦難、闇、暗黒、苦悩、追放」といった言葉が並べられています。また9章1節に「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」と言われています。これらの表現から、イスラエルの国全体が政治的・軍事的な圧迫の下で、精神的にも苦しい状況に追い込まれ、希望を失った暗闇の中におかれていることを想像することができます。
神によって選ばれた民であり、神から与えられた土地に住んでいる自分たちであるということに人々は疑いを抱き始め、「わたしこそあなたがたの神である」と言われる主なる神への信頼が、大きく揺らぎ始めていました。国壊滅の危機の中でイスラエルがイスラエルとして、すなわち神の民として存在し続けることに対する危機が、民の間に生じているということです。それを一個人になぞらえて言えば、自分とは一体何ものなのかが分からなくなってきた状況、自分が崩れていく状況・アイデンティティー・クライシスに陥っている、ということになるでしょう。北イスラエルと南ユダの民は、光を失った闇の中で、どうあったらよいかが分からなくなっているのです。
そのような民に対して預言者イザヤは、希望の光を指し示します。それが「ひとりのみどりごの誕生、ひとりの男の子の誕生」の預言です(5節)。ここでは、その子がすでに「生まれた」とか「与えられた」というように、過去形で語られています。これは現実においてすでに起こったことではなくて、これから先、このことが確実に起こる、間違いなくこの通りのことが起こるということを言い表そうとしている表現なのです。実際は将来のことを語りながら、すでに起こったことのように過去形で語る、この文法を預言者的過去ということがあります。預言者の言葉には、よく見られるものなのです。
預言者イザヤは、新しい王、新しい統治者がこの国に起こり、この方が、全イスラエルを守り、闇から光へ、死から命へと変えてくださると、確信をもって預言しているのです。それゆえ、1節で「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と語ることができ、2~3節においても、「喜び」、「楽しみ」が語られ、苦悩や苦痛や戦いなどからの解放が力強く宣告されることになります。
3節にある「ミディアンの日のように」というのは、土師記6章33節以下に記されている記事であり、神が士師ギデオンを用いて、イスラエルの民を襲うミディアン人を制してくださったことを指しています。その日のように、神は全イスラエルの民を、外国の圧迫から解放してくださると、確信をもって語られているのです。何よりもそのことは、ひとりのみどりごの誕生によって、その方が王に即位することによって現実のこととなる、と預言されています。
そのみどりごにやがて与えられる名、それはまた、その働きの内容も意味しているのですが、それが5節の後半に4つあげられています。この5節の句は、ヘンデルの「メサイヤ」の中でくり返し歌われているものとして知られています。思い起こされる方もおられるでしょう。四つの名とは、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。最初の「驚くべき指導者」についてあとで考えることにして、先にその他の三つについてごく簡単に考えてみましょう。
「力ある神」とは、神のような力をもって、民を導き、民に勝利を与え、そして救いをもたらすことができる者という意味です。「永遠の父」とは、真の父親のように、愛と厳しさとをもって、その子らを守り、民を守り、決して見放さない者ということを意味しています。「平和の君」とは、国の内外において争いや戦いをなくし、繁栄と平和な状況を造り出す者のことです。このような働きをする方が、「わたしたちのために生まれ」、「わたしたちのために神によって与えられる」、その方こそが闇を光に変える救い主である、と歌われています。
さらに、この方につけられるもう一つの名が、最初に出てくる「驚くべき指導者」という名です。これは、口語訳聖書では「霊妙なる議士」となっていて、分かりにくいものでした。それが新共同訳では、「驚くべき指導者」と訳し変えられました。他の日本語訳としては、「驚くべき助言者」、(フランシスコ会訳)とか、「不思議な助言者」というものもあります。この「指導者」とか「助言者」と訳されている語の本来表すものは、軍事的には参謀の役を担う者であり、政治的には王や君主に助言を与える議官を意味し、そして一般的には、助言したり、弁護したりする人、あるいは私たちが普通に用いる「カウンセラー」の役を果たす人のことを言います。多くの英語の聖書では、〈ワンダフル・カウンセラー〉と訳されています。救い主としてお生まれになる方は、統治者であり、王であられると共に、自らカウンセラーとしての役を果たされるお方であるということが、ここで言い表されているのです。
ユダの国に救い主として生まれ、全イスラエルに希望の光を照らしてくださる方は、王でありつつ、助言者でもあってくださるお方です。彼は支配し、統治しつつ、民族の危機に介入し、民たちに、一人ひとりに、自己の存在の意味と目的とを再発見させて、生きることの手助けをしてくださるお方です。そのような方がこの国で生まれる、とイザヤはその誕生を預言するのです。
長い歴史の経過の中で神を信じる人々は、このようなみどりごの現れは、神の御子イエス・キリストにおいて現実のこととなった、と受けとめました。先になされたインマヌエル預言を、神がわたしたちと共にいてくださるということが、御子イエス・キリストにおいて成就したと受けとめたイスラエルの人々は、9章5節の「ひとりのみどりごの誕生」も、神の御子の誕生を意味するものであったと信じて疑わないのです。究極的には、この二つの誕生預言は、神の御子イエス・キリストの誕生へと流れ込むものでした。男の子につけられるであろうと言われた四つの名「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」、これらのすべては、主イエス・キリストの人格とその業との中に含まれていることを、私たちも深い畏れと大きな感謝とをもって覚えることができるのではないでしょうか。
ひるがえって、私たちは、このみどりごは、今、ここで生きる私たち一人ひとりにとっても「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であってくださることを確信してよいです。「わたしたちのために生まれた」、「わたしたちに与えられた」と言われる「わたしたち」の中に、ここにいる私たちが、その一人ひとりが含まれているのです。主イエス・キリストは、私たちにとってもワンダフル・カウンセラーであってくださいます。
イザヤ書8章の終わりから9章にかけて描かれているイスラエルの暗い時代状況は、今日においても形を変えて存在しています。希望の光がうすれ、暗闇と死の陰が、私たちの時代をおおっています。一人ひとりの個人的な生活の領域においても、日本の社会においても、さらには世界規模においてはいっそう、暗雲がたれこめているという状況は深刻です。私たちは出口を見出せない闇の中におかれています。具体的にその事柄をあげる必要がないほどに、私たちにはそれぞれに固有の、そして共通の不安や恐れや心痛める事柄があるのです。それは人間としての、あるいは人類としての存在の危機、生存の危機ともなり得るものです。
どこに、私たちの恐れと問いとを投げかけたらよいのでしょうか。どなたに、私たちの生きることの苦しさと悩みとを訴え、相談したらよいのでしょうか。その問いの重みでこうべを垂れてしまいがちな私たちに対して、預言者イザヤは静かに、そして力強く「こうべをあげよ」と語りかけるのです。そして彼は告げます。「あなたがたには、驚くべき指導者がいるではないか。ワンダフル・カウンセラーが、あなたがたには与えられているではないか」と。そしてその声に促されてこうべを上げるとき、私たちそれぞれの前に、イエス・キリストが立っていてくださるのを見出すことができるのです。この方が、私たちのために驚くべき指導者、真の意味でのカウンセラーとしての働きをしてくださるのです。
カウンセラーとしての必要な条件は、相手をよく知っていることと、語るべき適切な言葉を持っていることです。主イエスは私たちと全く同じ人の姿をとって、人間として生きられ、死んで行かれました。その主は、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:18)と言われるように、私たちの苦しみと痛みと望みなき状態をご存じであられます。
また、主イエス・キリストは、神の言葉としてこの世に来られたお方だからこそ、一人ひとりに語るべきふさわしい言葉をお持ちなのです。この方に問うことによって私たちは、自分自身の抱える苦悩や疑いに関する回答を与えられるだけではありません。人間として存在することの意義、人類の向かうべき方向も示されるのです。聖書の御言葉の中に私たちはこの主を見出すことができ、祈りの中で私たちはこの主に出会うことができるのです。そしてそのようにして出会い、そこで示された命と救いの言葉を、私たちは他の人々に運んでいくのです。
ある人がこう問いかけました、「私たちのまわりはあまりにも暗すぎます。なぜ一日中クリスマスではないのですか。なぜ一年中クリスマスではないのですか」。しかしその暗さの中でこそ、人は光であり、助言者である主イエス・キリストを見出すことができるものとされているのです。
「深い暗い井戸は、昼間でも空の星を映すことができる」。暗闇がおおうこの時代だからこそ、私たちは光を必要としています、そして、私たちは今その光を見出すことのできる状況の中におかれているのです。つまり、闇の中でなおイエス・キリストにおいて希望の光を見出し、自分自身の生を生きぬくことができるものとされるのです。すべての人の心の中に、御子が迎え入れられるときこそ、その人にとって御子が誕生したときです。そしてすべての人が、その喜びへと招かれているのです。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今年も主の御降誕を待ち望むアドベントの時を迎えることができました。
闇がひたひたと迫るような時代です。不安や恐れが私たちの中にはあります。しかしこの世界に来てくださった御子イエス・キリストは、私たちの苦しみ、悲しみ、恐れをご存じでいてくださいます。また、神の御子として私たちに必要な神の御言葉を与えてくださいます。そのような驚くべき助言者・ワンダフル・カウンセラーがいますことを、深く信じさせてください。明日から12月に入り、寒さも厳しくなっていきます。どうぞ、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。