2023年6月25日(日)主日礼拝説教 マルコによる福音書1章16~20節
牧師 藤田浩喜
今日出てきたガリラヤ湖はパレスチナ最大の淡水湖で、南北は20キロに及び、東西は最も広いところで12キロもあります。面積は166平方キロで、この湖は魚に富み、風光明媚なところであったようです。ガリラヤ湖で魚を獲る漁師たちが多くいました。しかし冷蔵技術の発達していない時代ですから、鮮魚が流通することは、ほとんどありません。そのため、そこで獲れるたくさんの魚を塩づけにする仕事が、ガリラヤ地方の主要産業であったと言われます。
そのガリラヤ湖のほとりを主イエスが歩いておられた時のことです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と、神の福音を宣べ伝え始められた主イエスは、これから共に伝道の業を担う2組、4人の弟子たちを御許(みもと)に招かれたのであります。
今日の弟子を招かれた記事には、細々(こまごま)したことは述べられていません。召された4人が以前に主イエスと面識があったかどうかとか、召しを受けたとき彼らがどんな気持ちであったとかも、記されていません。そうではなく、ここでは本当に決定的なことだけが、浮き彫りにして示されています。それだけに、弟子として主イエスに召されるとはどういう出来事なのか、何が起こるのかが、ここにははっきりと記されているのです。
「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった」(16節)とあります。主イエスがシモン、後のペテロとその兄弟アンデレに出会われます。その出会いは、主イエスが漁師として働いている二人の姿に目を留められるところから始まります。主イエスの方から出会ってくださるのです。
この時代のユダヤ教において、律法の教師、ラビに弟子入りしたい者は、弟子の方から教師のところにやって来て、その門を叩きました。どの教師の弟子になりたいかは、許可されるかどうかは別にして、弟子の方が決めました。しかし、主イエスの場合は、弟子にしようとする者を主御自身がお決めになって、主の方から呼びかけられるのです。
またこの呼びかけは、二人が湖で網を打っている最中(さなか)になされました。シモンとアンデレにとって、湖で網を打つのは漁師として彼らが、毎日のように行っていたことです。繰り返されていた日常生活の一コマです。それは後に出てくる、舟の中で網の手入れをしていた、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様です。いつもと変わらない日常の営みがなされていました。しかし、主イエスの招きはまさに、このような日常生活の真っただ中で起こったのです。
イエス・キリストが私たちの主として出会ってくださる、言い換えると私たちが主イエスを信じ、その御後に従う者とされる出来事は、何か特別な場所や機会にしか起きないということではありません。聖なる場所に赴いて、敬虔な行いをしないと起こらないというのではありません。私たちが毎日の生活の中で繰り返している日常、どちらかと言えば疲れを感じたり、意味を見失ってしまいそうになるような日常生活の繰り返しの中で、主イエスは語りかけてくださいます。そして私たちを、主イエスを信じて御後に従う弟子としてくださるのです。
主イエスはシモンとその兄弟アンデレに呼びかけられました。17節です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」すぐ後で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネにも同じ呼びかけをしたことでしょう。主は何よりもまず、「わたしについて来なさい」「わたしに従って生きて行く者となりなさい」と、招いてくださったのです。
私たち人間は、誰かの声に従って生きていくのではないかと思います。この人の後についていきたい、この人の声に従って生きていけば大丈夫という存在を、探し求めているのではないでしょうか。そのような存在は、なかなか見つからないこともあります。「この声が従うべき声だ」、「あの声が従うべき声だ」と右往左往しているうちに、人生の大半を費やしてしまうことも稀ではありません。
また、誰の声に従って行くかで、私たちの行きつく先は大きく違ってきます。耳ざわりのよい、心地よい声が聞こえてくるかもしれません。いかにも優しく語りかけてくるでしょう。しかしその声の主が邪悪な欲望や自分勝手な目的を隠しているなら、従う者も間違った破滅の道へと連れて行かれてしまうのです。
一方、イエス・キリストが、「わたしについて来なさい」と呼びかけられます。主イエスは、人間を罪とその結果である滅びから救うために、神が遣わされた御方です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。イエス・キリストは、真実なお方です。この主イエスの招きに私たちが生涯をかけて従っていくときに、私たちは何のために生きているか分からないような無気力な生活から抜け出すことができます。そして、目標のはっきりした新しい人生が私たちの前に開けてくるのです。
私はこの主の呼びかけを聞くとき、古代の教会指導者であったポリカルポのことを思い出します。彼はスミルナ(現在のトルコ近く)の司教であり、近隣の諸教会に手紙を書いて、ローマ帝国の迫害下にある信徒たちを励ましました。そのポリカルポがローマ皇帝マルクス・アウレリウスの時、迫害によって捕らえられます。高齢のポリカルポを処刑するに忍びなかった皇帝は、彼に信仰を捨てるように迫ります。しかしポリカルポはこのように答えたのです。「私は86年間、キリストに従ってきましたが、主はただの一度も私にひどいことをしませんでした。どうして私の王であり救い主である方を汚すようなことができましょう。」こう答えて彼は、火あぶりの刑に処せられながらも、神を賛美して殉教していったのです。イエス・キリストに従う道は、平坦な苦労の無い道であるとは限りません。喜びと平安だけでなく、労苦や苦しみを味わうときもあります。しかし、それは私たちの救い主イエス・キリストが共に歩んでくださる道です。感謝をもって思い起こすことのできる道であり、後悔することはないのです。
さて、「わたしについて来なさい」と呼びかけられた主は、彼らに言われます。「人間をとる漁師にしよう。」2組、4人の弟子たちは、主イエスに召されて、「人間をとる漁師」になるのです。ガリラヤ湖で魚を獲っていた4人が、主イエスに従い「人間をとる漁師」になる。ここには、主イエスに従う者となった弟子たちに、大きな生き方の変化が起こることが示されています。
「魚をとる漁師」が「人間をとる漁師」になる。4人が漁師であることは継続しています。しかしその両者には大きな違いがあります。「魚をとる漁師」は魚を捕まえ、殺して食べます。しかし「人間をとる漁師」は、人間に永遠の命に至る食べ物であるイエス御自身を与えて、人間を生かすために獲るのです。また「魚をとる漁師」は、魚を誰かに売り渡すために獲ります。しかし「人間をとる漁師」は、獲った人間を誰かに売り渡すためではなく、死に至る罪から買い戻すために獲るのです。福音を宣べ伝えることによって、世の人々を死ではなく永遠の命へと至らせる。世の人々を罪の支配から神のご支配へと買い戻す。それが「人間をとる漁師」の使命です。主イエスに招かれ弟子となったキリスト者には、この「人間をとる漁師」としての使命が加わるのです。
私たち洗礼を授けられてキリスト者になった者たちのほとんどは、この世で仕事を持ち、社会の中で役割を担っています。主イエスの弟子たちのように、この世の職業を捨てて伝道者になる人は、牧師や伝道師のように一部の者でしかありません。しかし、キリスト者となり主イエスの御後に従う者は、だれ一人例外なく「人間をとる漁師」としての使命をゆだねられているのです。だれもが神の国の福音を宣べ伝える働きに参与しているのです。
そして、「人間をとる漁師」の働き、つまり神の国の福音を宣べ伝える働きは、この世で従事している仕事、この社会で担っている役割を通して、豊かに押し広げられていきます。こうした仕事や役割を持つ人たちがキリスト者であることによって、「キリストの香り」が持ち運ばれていくのです。もし、主の福音宣教が、教会という場所でしか行われないとしたら、福音宣教はどんなに小さく狭い場所での営みに留まってしまうことでしょう。非キリスト教国の日本にあっては、ごく小さな範囲に限られてしまいます。しかし、この世で様々な職業を持ち、社会で多様な働きを担っているキリスト者が、「人間をとる漁師」の働きに参与することによって、その範囲は大きく広げられていくのです。日々働いている職場において、教育現場やそれぞれの家庭において、それぞれが属している地域社会の中で、神の国・神のご支配が広げられていくのです。
そしてこのことは反対に、私たちのこの世の職業、社会での役割を、本当の意味で生きがいあるものにするのではないでしょうか。宗教改革後の近代プロテスタンティズムにおいて、一般の職業を神の召命(ベルーフ)と受け止める考え方が現れてきました。工場主も職人も店の店主も、それを神様が与えてくださった召命と受け取り、その職業を通して神様の栄光を現そうと考えるようになったのです。神様の召命を受けているのですから、勤勉であることや倫理的に正しいことが目標とされたのです。一方、私たちの生きる現代社会においては、そのようには考えません。キリスト者もこの世の職業は職業、信仰は信仰と分けて考えることが当たり前になってはいるように思います。
しかし、そのように職業と信仰を完全に分けてしまうことの結果として、自らの職業に生きがいを見出しにくいというマイナス面も現れているのではないでしょうか。私たち人間は、このことのためにわたしは生まれて来たのだという、一人一人に与えられている使命を見出すことが大切です。それによって、人は意味のある人生を歩むことができるのです。私たちはこの世の職業、社会での役割を担っていますが、それと同時に主イエスから与えられた「人間をとる漁師」の働きをも合わせて担っていく。そのように自分の職業や役割を、福音宣教の光の中で神様から与えられた使命として受け取り直していく。そのときに、私たちの人生はより大きな生きがいを持つものとなっていくのではないでしょうか。
今日の箇所で、シモンとアンデレは、網を捨てて主イエスに従って行きます。網は仕事をする上でなくてならない道具です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して主に従います。二人は家族や少なくない財産を捨てて主イエスに従ったのです。ここで示されていることを心に留めなくてはなりません。それらの大切なものを捨てるということはどういうことか。それらのものを拠り所としてはならない。ただお一人の救い主イエス・キリストだけにすべてをおゆだねして生きなさい。そのことが召された弟子たちには求められているのです。この一点を外すことはできません。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も礼拝に集められ、あなたを讃美することができましたことを感謝します。神様、あなたはイエス・キリストを通して私たちを弟子として召してくださいました。私たちは主イエスの御後に従う人生を歩んでいます。どうか、一人一人の人生をその御手をもっ、て確かに導いていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。