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日本キリスト教会 南柏教会

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あなたの敵を愛しなさい

2014年10月26日(日) 南柏教会主日礼拝説教(説教:駒井利則)

聖 書:イザヤ書11章1~10節

マタイによる福音書5章43~48節

説教題:「あなたの敵を愛しなさい」

 

キリスト教は愛の宗教であると言われます。それに加えて、キリスト教の愛の特徴は敵を愛する愛であると言えます。主イエスはマタイによる福音書5章44節で、「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と弟子たちに命じておられます。主イエスを信じ、主イエスに従う弟子たちに求められている愛は、普通の愛よりもはるかに高い愛なのです。

敵をも愛する愛なのです。

わたしたちはきょうの礼拝で、マタイによる福音書5章43節以下のみ言葉から、キリスト教の愛の特徴と言われる敵を愛する愛について学ぼうとしていますが、そしてそのことはまた、主イエスがわたしたち一人ひとりに対して「あなたの敵を愛しなさい」と命じておられるそのみ言葉に、わたしも聞き従うということなのですが、その敵をも愛する愛についてご一緒に学んでいきたいと思います。

主イエスがここでわたしたちに命じておられる愛は、わたしたち人間が他の人間を愛する愛のことですが、聖書が語っている愛は、第一には神が人間を愛する愛、神の愛です。このことをまずしっかりと聞き取っておくことが重要です。聖書は、まず最初に神の愛があり、それに続いてわたしたち人間の愛があると、繰り返して語っています。神の愛なしには、人間の愛はないと、聖書は語ります。ヨハネの手紙一4章7節以下を読んでみましょう。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(7~11節)

神はわたしたち人間を罪から救い出すために、ご自身の最愛の御子なる主イエスをあがないの供え物として、十字架の死に引き渡されるほどにわたしたち罪人を愛してくださいました。その神の偉大なる愛と尊い犠牲によって、わたしたちは罪の奴隷から救い出され、自由な者とされ、神の愛に生きる者とされているのです。ここから、わたしたち人間の愛が始まるのです。「互いに愛し合いなさい。あなたの隣人を愛しなさい。あなたの敵を愛しなさい」と言われる主イエスのみ言葉に喜んで聞き従っていく道が開かれるのです。このことをまず最初に確認して、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。

マタイによる福音書5章43節の「隣人を愛しなさい」という戒めは旧約聖書レビ記19章18節で命じられている、重要な律法の一つです。主イエスは、旧約聖書のすべての律法をまとめて、申命記6章5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めと、このレビ記19章18節の「隣人愛」の戒めを挙げておられます。旧約聖書全体の教えが、主なる神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つの愛の戒めに集約されると主イエスは言われました。

では、レビ記19章18節を読んでみましょう。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

イスラエルの人々は、ここで「隣人」と言われているのは同胞のことであり、他の民は含まないと考えました。他の国の民は愛の対象ではなく、時として敵ともなる対象であると考えました。「敵を憎め」と言う戒めは、そのままの言葉としては旧約聖書の中にはありませんが、イスラエルの人々が隣人を同胞に限定することによって、同胞でない民は敵であり、憎む対象であると考えた(それは、彼らが神の律法を誤解していたことになるのですが)、その彼らの考えを、主イエスは代弁しておられるのです。

主イエスは、彼らが隣人を自国の民に限定して神の律法を狭め、誤解していることに反対して、「しかし、わたしは言う」と、強い口調で言われます。ここでは、「わたしが」という言葉が強調されています。わたし、主イエスとは、どのような方でしょうか。5章17節で主イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。「あなたの隣人を愛しなさい」と命じられている旧約聖書の律法を最終的に完成するために父なる神から遣わされたこのわたし、主イエスが、「あなたの敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」とお命じになるのです。また、わたしたちが説教の最初で確認したように、わたしたちに本当の愛とは何かを示され、その愛への道を開かれたその主イエスが、「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈れ」とお命じになるのです。

「敵を愛しなさい」と訳されている箇所は、原典のギリシャ語では「あなたがたの敵」と、「あなたがた」という言葉が付いています。43節の「隣人」、「敵」には「あなたの」という言葉が付いています。ここで気づかされることは、隣人を愛する、敵を愛するということが、一般論として言われているのではなく、より具体的に、実践的に、あなたの課題として、わたしたち一人ひとりの課題として語られているということです。「あなたの敵を愛しなさい」。今あなたの目の前にいる、あなたに敵対しているその人を、あなたを憎み、あなたを攻撃し、あなたを苦しめているその人を、愛しなさい、と命じられているのです。また、あなたを迫害し、あなたを肉体的に、精神的に苦しめ、あなたの信じる権利を奪い、あなたの生きる権利すら奪い取ろうとしている迫害者のために、その人の幸いや救いのために、神に執り成しの祈りをしなさい、と命じられているのです。

しかし、わたしたちには敵や迫害者を憎んだり、復讐したり、その滅びを願ったりする当然の権利を持っていると考えます。そうしなければ自分の正しさを守ることができないし、また社会の正義と秩序を維持することもできないのではないかと考えます。それでもなお、主イエスは、わたしたちが自分を弁護する権利や社会正義を守るためといった理由をすらも放棄して、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを迫害する者のために祈りなさい」とお命じになるのです。

これは驚くべき命令です。わたしたちがとても達し得ないほどの高い要求です。わたしたちのだれもが、このあまりにも高くて困難な要求の前でたじろがざるを得ません。主イエスはなぜわたしたちに実行不可能なような無理な要求をなさるのか、あるいは、これは単にわたしたちが目指すべき理想にすぎないのかといった疑問が生じてきます。主イエスはそのような疑問についてどうお答えになるのでしょうか。それでもなお、主イエスがわたしたちに、「あなたの敵を愛しなさい、あなたを迫害する者のために祈りなさい」とお命じになるのはなぜなのでしょうか。

では次に、46節以下のみ言葉に注目したいと思います。。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」(46~47節)

主イエスはここで、わたしたち人間の愛について語っています。わたしたちの愛は、自分を愛してくれる人を愛する、自分と親しい人と挨拶をする、そのような愛です。わたしたちの愛は、愛する対象に左右されます。その対象が愛すべき価値をもっているから、持っている限りにおいて、その人を愛するのです。わたしたちの愛には多くの条件や限定が付けられます。わたしたちの隣人愛は狭い限られた範囲に限定されています。

しかし、主イエスは、そのようなわたしたちの愛は罪人の愛でしかない、神を知らない異邦人の愛でしかないと言われます。ある人はこう言います。「隣人愛の集中は、実際は、隣人愛の否定である」と。わたしたちが隣人愛を特定の人だけに集中させていることは、「あなたの隣人を愛しなさい」と言われる主イエスのみ言葉に背いていることになるのです。

わたしたちはここで、わたしたち人間の愛の破れを知らされます。「あなたの隣人を愛しなさい」。「あなたの敵を愛しなさい。」とお命じになる主イエスのみ言葉の前で、その戒めから遠く離れている自らの愛の貧しさと破れとを気づかされるのです。そして、隣人を愛することを知らず、本当の愛を知らない自らの罪を告白せざるを得なくされるのです。

しかし、きょうのみ言葉はそれで終わりではありません。主イエスは、そのような罪の中にいるわたしたちの目を、愛の不毛の中であえいでいるわたしたちの心を、天にいらっしゃる父なる神へと向けさせます。

「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。…だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(45、48節)

主イエスはわたしたちが神なき世界で罪の中に沈んでいるままに放置なさいません。愛のない世界で孤独か、もしくは争い中で生きることをお許しにはなりません。わたしたちが天の父なる神の子どもたちとなるために、神に愛されている子どもたち、そして罪ゆるされ、神のみ国に生きる民となるために、主イエスは父なる神によってこの世へと遣わされたのです。主イエスこそが、神が善人にも悪人にもすべての人の上に天から降らせてくださった愛と恵みの雨なのです。

わたしたちはここに至って、きょうの説教の最初で確認した神の愛のメッセージへとたどり着きます。神こそがすべての愛の根源です。神の愛は、罪ゆえに裁かれるべきわたしたち罪人に向けられました。神の愛は、ご自身の独り子なる主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち罪人の救いのために注がれました。神は、わたしたちがまだ神の敵であったとき、罪と滅びの中にあったわたしたち人間を救うため、その独り子を賜るほどに愛してくださいました。わたしたちは神の愛によって愛される時に、はじめて愛の何たるかを知らされるのです。それによって、神は、愛を知らず愛の不毛にあえいでいるわたしたちのために、真実の愛への道を開かれたのです。

今やわたしたちは愛を知らない、この世の滅びの子たちではありません。神の愛に愛され、神の愛を知らされた神の子たちです。そして、今やわたしたちは多くの欠けや破れを持ちながらも、神の完全さの中へと招き入れられているのです。神の愛は完全であり、永遠です。神の契約は完全であり永遠です。神はそのご自身の愛と契約の中にわたしたちを招き入れてくださったのです。神はひとたびお選びになったわたしたちを決してお見捨てにはなりません。たとえ、わたしたちがつまずくときにも、試練や迫害のときにも、そしてわたしの死のときにも、神はわたしの愛と救いの神であり続けるのです。それゆえに、わたしの敵を愛し、わたしを迫害する者のために祈ることによって、わたしはこの神を証しするのです。

 

(祈り)

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